「凡聖逆謗斉廻入/如衆水入海一味」  濤 了恵



 つい最近読んだ本の中に書いてあったことです。アイヌ民族についてのこと です。
 もう北海道の一部分に追いやられてしまっておりますが、むかしは東北まで アイヌの人達がいたんですよ。明治3年、内地の人間が渡るのと同時にアイヌ人 の地面をみんな取り上げてしまったんですよ。そのアイヌ人々は、すばらしいも のの見方を持っているんです。

 私達はねえ、隣の婆ちゃんが、隣の爺ちゃんが、何やらつじつまのあわん言 葉を使い出すと、「大分もうろくしてきたねえ」と、こう言う。すると「あら、 あんた知らなかったん、とうからもうろくしとるんや、うちのものも相手にせん し、周りのものも誰も相手にせん、あそこの爺ちゃんがしゃべり始めると、『あ あ、わかったわかった』、とこう言うんや」。「うん。そう言えばその通りや、 皆聞くだけにしとる」。

 うちのお婆ちゃん、私の祖母ですが、八十七で亡くなりました。五十代の頃 も、娘さん達に裁縫を教えてました。厳しいお婆ちゃんでした。背筋がすうっと 伸びてね。そんなしっかりもんが、最後はやはりぼけたです。そして門徒の人、 それからお裁縫を習った人達がたまに声かけるとね、必ずおっしゃるのは、こた つの中におっても、「おお、今日は田植え済ましてから来たか」、ちゅうて、ど んなわけやったか、いつも田植えやったがねえ。そうするとこっちはもの分かり が良いような顔して、「お婆ちゃん、こたつに入っとって何の田植えや」、とこ う言うとった。そのうち、どれだけ言うても分からんから、しまいには婆ちゃん にとにかく言わせておいて、「おお、いま田植え済まいてきたとこや」、とこう 言う。

 ところがアイヌの人はね、年寄り達がそういう言葉を使い出すと、「あそこ の婆ちゃんもこの頃神様の国の言葉を使いだしたなあ」と。この神様は日本の神 様と違うんですよ。仏教で言う仏さんに近いんです。どうしてかと言うたら、そ こから生まれてきてそこへ帰るんです。日本の神様は、「うまいめに逢わせてく ださい」と拝む神様です。おおざっぱに言ったらそうでしょう。「あそこの婆ち ゃんこの頃、もうろくしてきたな」と言うのでなくして、「このごろ神様の国の 言葉を話し始めたな」。するともう一人の人が、「おお、おらもそう思うとる。 だいぶん神様の国の言葉を使い出した。そろそろ神様の国へ帰る準備を始めたな あ」と言うて、大事にしたというんですよ。

 私はこの言葉に出会ったとき、本当に感動した。私達はこうして喋るのが正 常な仲間で、ちょっと狂ったことを言ったら見下げておる命を生きとったなあ、 と思った。そうでございませんか。そしてそういう人を切り捨てていたんでしょ 。「言わせておけ」と、これで切ってしまったんでしょう。そうでしょう。

 すごいねえ、アイヌの人は。「私達に分らん言葉を使い出した」、のではな くして、「神様の国の言葉を使い出した」。「そろそろ神様の国へ帰る準備を始 めとるな」、と大事にしたといね。私はこれや、と思った。

 私達は、意味の通らん年寄りの言葉を聞いた途端に半分人間でないような扱 いをしとるがいね。それがないと言えますか。そして五体満足が当り前で、少し でも不自由な人を見たときにはもうはや見下げる根性を私は持っておりませんと 本当に言えますか。五体満足が当り前で、ちょっとでも不自由な体の人をすぐに 区別差別して、そして人間らしい心を出したと言うたところで、それは上の方に おって下の方を見とる。「気の毒やな」、というのじゃございませんか。どこに 共なるいのちがありますか。

 〜「凡聖逆謗斉廻入」〜、愚かな人(凡)も、悟った方(聖)も、罪作った もの(逆)も、仏法謗(そし)った者(謗)も、斉(ひと)しく廻入(えにゅう )すれば、というのは、目覚めれば、ということやね。目覚めれば、〜「如衆水 入海一味」〜、衆水(しゅうすい)海に入りて一味(いちみ)なるが如し。
 これは例えやね、色々な川から流れてくる水、生活用水に汚れきった水も、 谷川から奇麗に入ってきた水も、海へ入れば一味やとおっしゃる。なぜ、愚かな ものも罪作ったものも一味の世界ですか、というたら、それぞれの力で目覚めた のではなくして、如来によって目覚めさせていただいたのだから、とおっしゃっ ておられるんや。善人の目覚めと悪人の目覚めと、違うとおっしゃっておられる のではない。それはそれぞれのかいしょうで目覚めたものならば違うかしらんけ れども、如来によって目覚めさせていただいたんだから、「衆水海に入りて一味 なるが如し」とおっしゃっておられる。


(この文章は、当院報恩講での濤了恵先生のお話から抜粋したものです。)

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