「どんないのちを生きていますか(2)」  濤 了恵



 さあ、いのちの質と言うたね。それを四十八願に見て行きましょう。

 四十八願と言うよりも、なぜ如来さまが願いをたてねばならなかったのだろ うか。そのことが大事なんだろうと私は思う。四十八というその数も大事なんだ ろうけれど、そもそも、なぜ如来さまが願いをたてねばならなかったのだろう。

 大無量寿経四十八願のところに目をあてさしてもらいましょう。
 第一願から第十一願まで、どういう願文がここに納まっているのかと言うた ら、人間にさせたいという願望、人間成就の願です。
 十二願から二十二願まで、これは仏道成就のグル−プです。
 そして二十三願から四十八願まで、ここは念仏に遇うたものがこういう生活 を、こういう歩みをさせることができなかったならばという願ですから、菩薩道 を成就してくださる願です。

 四十八願は人間にさせたいというところから始まる。人間にさせたい。そう すると仏のまなこから見たらねえ、人間になっとらんがです、私達は。人間にな っとらん。だから第一願にこうおっしゃっとる。第一願に、たとえ我が仏になっ たときに、我が国に地獄、餓鬼、畜生があらば、正覚の座につきとうないとおっ しゃった(設我得仏、国有地獄餓鬼畜生者、不取正覚)。これは、考えてみると おかしい願ですよ。仏国浄土にね、地獄、餓鬼、畜生があろう道理がないがです 。

 けれども我が国に地獄、餓鬼、畜生あらば、正覚の座にはつきとうはないと おっしゃったのは、国のことをおっしゃったがではない。地獄という境界のこと をおっしゃったがです。これは人間の性を失のうて生きておる境界。人間らしさ を失のうとるんです。いっぱいある人間の性の中で、人間の性を堕落させる代表 的な性を如来さまは地獄の性であり餓鬼の性であり畜生の性と見届けなさったが です。私達が生きている境界は、そして私達のいのちの生きざまは、三悪道のい のちのど真ん中に生きているということを見抜かれたから、人間にさせたい、人 間にさせるまではという出発が、四十八願のスタ−トになってくるがです。

 如来のまなこから見なさったときに、一切の衆生は、無量なる可能性、無量 なる性をかかえて生きとるがです。無量なる可能性、無量なる性をかかえて。

 真実なるものに我が身をたずねることがないと、いつのまにかいのちが鈍感 になっていくがです。鈍感になってしもうげん。わずか三十年、いや、四十年前 に、二度と再びやってはならんと誓った戦争が、もういつ始まるかもわからん土 壇場まで来とるがじゃございませんか。あのときも世界平和のためだったんです 。今もまた、平和のためという言葉が出てきたんです。

 死刑に反対やとかいいとか、戦争がいいとか悪いとか、そんなちっぽけなま なこで言うとるのではないげん。信心のまなこをいただいたら何が見えてきたか ということが大事なげん。自民党やたら社会党やたら、そんなところで私達が生 きておるがではない。仏弟子として名乗りを上げて生きとるがじゃございません か。そうなんでしょう。だから法名もらったんでしょう。法名もらったというの は、私は仏弟子として生きてゆきます、一切を仏にたずねますという、約束の名 乗りでございませんか。

 如来さまは、人間の性を取り戻して、二度と再び堕落しない人間にさせたい と、次にこうおっしゃったです。もしもまた我が国から他の国に行くことがあっ たとしても、二度と再び人間堕落するようなことがあるがならば我は仏の座には おりとうない(設我得仏、国中人天、寿終之後、復更三悪道者、不取正覚)と。 これが第二願です。それは何かと言うたらね、本当に念仏に遇うて人間の性を取 り戻されたものは、還相の菩薩にさせるという約束ですよ。還相の菩薩に、とい うのはね、どんなところへ足を向けても、二度と再び環境に、時代に、自分を見 失うことのない、念仏者にさせることが出来なければ、我は仏にはなりとうない 。

 どうですか。おれさえ助かればそれでいいというがではない。助かったもの が、助かったあかしを還相の菩薩として働かさしてもろうがです。私よりも先立 ったいのち、どんな命の果たし方の人であっても、私に驚きを与える力があると いうのは、間違いなく、私のいのちに、「ただ生きておるだけがいのちではない ぞ」というショックを与えてくださったのです。そして、目覚めさしてくださる 、教えに遇うご縁を下さったいのちやから、諸仏といただけるがでしょう。そう なんでしょう。
 「あんな鬼のような方やったけれども、私にとっては、あんな鬼ですら死ぬ がかと思たら、私は他人事ではなかった」と気づかさしてもらえたならば、その 鬼も諸仏でございませんか。

 仏法さまは、私から始まったがです。私を見抜いたところから、本願の歩み が始まったということを、どっかにきちんとおいてほしいんです。それが人間成 就の願、本願成就ということなんですよ。
 私が私にさせていただく。私が私以上になるがでもないし、以下になる必要 もない。私が本当に私でよかったな、と、うなづけたとき、いのち尊し、いのち めでたかったわい。私に遇えるいのちをもらって生まれてきたことがうれしかっ たな。それが寿命の寿という、お祝いの意味じゃございませんか。


(この文章は、当院報恩講での濤了恵先生のお話から抜粋したものです。)

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