今年の春にねえ、うちの在所ですが、あんまり行かんお家の前を、車でなく 、自転車でなく、ぶらぶら歩いておりまして、ほっとこうして見ましたらね、こ こはでっかい農家なんです。とうちゃんは三年前に癌で亡くなりましたが、私よ り若いのにね。家の前に、広いのでね、車なら並べれば八台は並ぶやろうね。で かいでしょう。ところが道路がだんだん舗装を重ねるから、水がだんだん屋敷へ 入るげん。ですから雨が降った次の日、草履で行けんがです。それがねえ、舗装 してあった。とうちゃんが亡くなって丸まる二年たって、舗装してあった。真ん 中に築山が二つ。私も、いやあ、立派になったなあ、きれいになったなあと思う て、独りしゃべりしながらこうして見とってん。そしたら、そこの家の母さんが 私のこと見つけて、「あら、ごえんさん」て。 「かあちゃん、立派になったねえ」、こう言いましたら、「ええ、いつもじ めじめしていましたから、この際と思うてきれいにした」。 けれど何かねえ、もうひとつ雰囲気が違う。何かなあ、何が変わったがかな あと話しながら考えとったら、分かった。そこの家の玄関先に、これ位大きい( 両手でひとかかえ)いちじくがあったんです。 この時期になると私達はねえ、本当にうらやましかったです。死んだとうち ゃんが。好きなだけ、食べられるげん。おら、一つもらうかねえ、そうでなけり ゃ、落ちたが拾てくるか、ねえ。いや、本当や。どうしてかと言うたら、そこの 婆ちゃんが、そのきれいないちじくは、飯田の市へ持って行くがです。食べたい し、あたらんし、いいなあと思とった。そのいちじくがなくなっとったです。 「かあちゃん、いちじくの木どした」、て聞いたら、「おれはどうでもよか ったけれども」って、こんな言葉で言うんや。ありゃ、と思うてねえ。 ははあ、親鸞さまおっしゃるがこれやなあと、責任取ろうとせんなあ、と。 「私はどうでもよかったけれども」。「で、どしたがや」。「飯田のおばち ゃんが、ごえんさん、見てもろうたげいて」。見てもろうたというのは、レント ゲンの病院ではないところで見てもろうたげん。見てもらったんですと。どうし てかと言うたら、「おら家に次から次と」、おばちゃんの実家、生まれた家やか らね、「おら家に次から次と災難がある。ええことない。何のせいかな、どうし てかなあと、見てもろた。そしたら家の前の玄関先に、鼻の先に、いちじくの木 がある。それがわざわいのもとやったんや」。 知らん人、しっかり聞いときな さいよ。いちじくの木が悪かったげといね。災難が続いたのは。「それでおれは どうでもよかったけれど、おばさんがそんなこと言うもんやから切ったがや」。 私はいちじくが気の毒やなあと思た。私は還暦です。そのいちじくの木、そ の下行って拾ったり取ったりしてきたのは、五十年前とせんかいね。そのときで もこれだけ(両手でひとかかえ)あったげぞ。そうすると少なくとも七十年はた っとるげね。ねえ。 私はねえ、見てくれる人どんな偉い人か知りませんが、十年先に植えてから 家に悪いことが続いたがなら、われのせいやと言うて、いちじく切ってもいいわ いね。長い間食べるだけ食べて、市へ行って売ってもうけて、そして最後はいち じくのせいやと言われたら、いちじくが気の毒や。 いちじくの木を、いちじくの木のままに見極める智慧がなくなるげね。おび えてくるがです、今度は。如実知見というのはそんなことのげん。ええ。いちじ くの木を今までいちじくの木やと思うて見ていたのがね、これはいつ私達を、こ れよりもまだ悪いのにしてしまうかもわからん恐れとおののきの対象に変わるげ ね。おびえです。いちじくにさえもおびえるげん。だから切ってしもうげね。い ちじくに責任取らしたです。気の毒な。どこ行ったか知りませんが。 こうして一緒になってお話聞くと、漫画のような話ですが。親鸞聖人は、真 実の教えに遇うことによって、そういうものの考え方はあの人でないこの人でな い、私の中にあったと懺悔されたがですよ。それを内なる外道性、外道、外道の 性や。外道と言うたら外と思いますが、違います。親鸞聖人は内にあったとおっ しゃる。 分かりやすい言葉で直します。責任をとろうとせん根性です。ええ。都合が 悪くなると市長が悪いと言うがです。都合が悪くなると海部総理大臣が悪いと言 うがです。一回も私が悪いと言わんげん。私のせいにせんげん。方角のせいにす るげん。友引のせいにするげん。あれのせいにし、これのせいにして、一回も私 のせいにしない。そういう根性を、真実の教えに遇うことによって、持っている のが私やったと目覚める。 仏法というのはね、そういうものを、なくして助かるがではない。そのもの を見極めさしてくださる智慧に遇うた時に、そのものに二度と再びおびえさせて もろうことのないすばらしいいのちが始まるのです。断ち切るがじゃございませ ん。こんな根性なくするがじゃございません。また出てきたなと見極める智慧を いただいたら、二度と再びこれにだまされんがです。親鸞聖人そういうことを「 煩悩具足の凡夫と信知して」、とおっしゃっておられる。 煩悩具足と言うのは、もっとるという、ただそんな意味じゃございません。 煩悩をつかいこないてゆく我が身として如来に目覚めさしていただいた、その自 覚の言葉を凡夫と、まずおっしゃったがです。誰でも彼でもが凡夫、そうではご ざいません。求道心のない人、真実を求めようとする心のない人、如来さまと関 わりを持とうとしない人には、人は九十年生きとっても凡夫になれんです。凡夫 というのは如来と関わりを持つことによって初めてこういう正体が私やったなと 、目覚めさしていただいた、仏教の人間像の目覚めの第一歩の言葉を、凡夫と知 らしてくださったがです。 一切恐懼(いっさいくく、仏説無量寿経・嘆仏偈)。 一切の衆生は恐れながらおびえながら生きとる。そうでないと言えますか。 お月さん行って、戻ってくる時代やと言うておる若者達が、駄目なげね。そうな んでしょう。「四」やら「九」ににおびえるげね。これにおびえるというのはね 、これにさえ遭わなければ、関わりさえ持たなければ、「死」やら「苦」に遭わ んですぎると思とるがかね。そうでないがですか。避けて通ることができんがで すわ、こりゃ。避けて通ることができん。寿命は延びた、と言うけれど、あれは 延びただけや。延びただけやわい。だから、ここまで延びたけれども、ここまで やったから、この頃死亡欄見るとたいてい精一杯延びたんが死んどるげね。 一切恐懼。この偈文。私は特にここが具体的やなあと思います。貧しいいの ちを生きているがために、貧しいものの見方しか出来ない。いちじくにさえもお びえているがです。万物の霊長とは言いながら。 (この文章は、当院報恩講での濤了恵先生のお話から抜粋したものです。) |