「人間であること(2)」  松扉哲雄



 私は毎月決まったところで、月に八回お話ししています。あちらこちらで毎 月決まったところでお話をしとる会が八回あります。その会に、一年に三、四十 人、やっぱり初めて顔を出すという人がおるんですね。そんな人達が私のとこへ 来て挨拶するときは決まっとるんですね。
 「先生、こんなもんでも仏法でも聞けば少しはましな人間になるかと思うて 、聞きに来ました」とおっしゃるんやわ。ほんで私はね、「そうやね、ましな人 間になれりゃいいがねえ」と、それだけ言うとくの。後は気付いてもらうより他 ありませんね。

 仏法聞いたら性根(しょうね)は変わるんですか。これに対する答が、親鸞 聖人の御和讃で一番最後の御和讃、愚禿悲歎述懐讃というのがございますね。愚 禿が悲しみ歎きて作った歌なんだという具合におっしゃる、八十六歳のときの御 和讃がございますね。その御和讃の冒頭にこう書いてあるんですよ。
「浄土真宗に帰すれども/真実の心はありがたし/虚仮不実の我が身にて/清 浄の心もさらになし」とおっしゃっているじゃないですか。

 浄土真宗に親鸞聖人が帰せられたのは数え年二十九歳です。この御和讃が作 られたのは八十六歳。あしかけ五十七年の歳月が流れてますよ。しかもその五十 七年の歳月はね、私達のように月に一回か二回、仏法聴聞するような、そんな聴 聞の仕方でない、毎日毎日が経典と首っ引きの五十七年の歳月です。
 ならばましな人間になったのか。

浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
  虚仮不実の我が身にて
   清浄の心もさらになし

悪性さらにやめがたく
 こころは蛇蝎のごとくなり
  修善も雑毒なるゆえに
   虚仮の行とぞなづけたる

無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
  弥陀の回向の御名なれば
   功徳は十方にみちたまう


というぐあいにずっと続きます。悪性さらにやめがたい。性根は変わらない。 仏法聞いても性根が変わらない。

 そんなら何のために仏法聞くのか、となりますと、「真実の心はありがたし 、清浄の心もさらになし」。「ありがたし、さらになし」と言い切ることのでき るような立場が私の中に生まれてきたということです。 それまでは仏法でも聞 けば少しはましな人間になれるんじゃないかなあという淡い夢を持って人生生活 を送っておった。そういう人生生活はいつでも宙ぶらりんのところにふらふらふ らふらとして生きておる人生なんです。

 だからたまたま縁があって自分の思うた通りにいけば喜んでねえ、「仏法聞 いたかいがあった」と言って喜ぶ。思う通りにいかんと言うと「なんちゅうこっ ちゃ、こんなんなら聞いたかいもない、もうやめよか」。宙ぶらりんである限り は上がったり下がったりしながら生きねばならんのが人生です。

 ところが夢を持たないで、自分の事実に立って、はっきりとそれを見据えて 生きる。そういう立場が与えられたということですねえ。
 「浄土真宗に帰すれども/真実の心はありがたし/虚仮不実の我が身にて/ 清浄の心もさらになし」と言い切ることができたということは、別の言葉で言え ば、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし(歎 異抄)」。地獄一定の身であったと、地獄に立つことができたんです。地獄から 逃れようとしておった身が、地獄一定の身でございましたと、地獄に立って生き る、そういう立場が与えられたということですね。

 そこには夢というものを持つことを許さない事実に立って、厳粛な生き方が 開かれてきたということ、それが私は浄土真宗の教えを聞いたという事実だと、 いう具合にいただいていいんじゃないかなあということをこの御和讃は我々に教 えておると思いますね。


(この文章は、門徒研修会での松扉哲雄先生のお話から抜粋したものです。)

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