大阪に、ある真宗のお寺があるんです。お寺の前には掲示板がかけられて、 掲示伝道がされているのです。ところが、そこは繁華街なんです。一日、何千と いう人が往来するわけです。普通お寺の掲示板などあまり目につかないものなん ですけどね、そこのお寺の掲示板は、その道を往来する人がその言葉の前で立ち 止まるんだそうです。なぜか解りますか。 書かれてある言葉が真実だからです。書いた人の身を通した言葉だからです 、その住職の。どこかの、標語から引っ張ってきた言葉じゃないんです。本当に 身体でうなづいて、なるほど、そうだ、とうなずかされた言葉だけがそこに書い てあるんだそうです。だから、道行く人はその言葉に呼び止められるんです。 これが如来のはたらきです。真実のはたらきです。 たいていの人はその、自分で、意志で止まって読むんじゃなくて、その言葉 に呼び止められるんだそうですね。書かれていることが素晴らしいからです。 それは必ずしも仏教の言葉でないんです。隣のおばあちゃんの言葉だったり 、自分の孫の言葉だったり、びっくりした言葉とかね、心の底から頭が下がった 言葉とか、そういう言葉が書いてあるんです。 言葉がだいたい十日毎に変わるんだそうです。そしたらその言葉だけに会う ために、二時間半のバスに乗って言葉に会いにくるんだそうです。やっぱり大し たもんでしょう。言葉に会いたいんです。真実の言葉に出会うと感動するからで す。二時間半バスに乗って、一行の言葉に会いにくるんです。それほど、真実の 言葉というのは人間に深い喜びとうなずきと感動を与えるんです。 ある時、その掲示板にどういう言葉が書いてあったかといったら、小学校一 年生の、男の子の言葉が書いてあったそうです。どんな言葉か。 「パチンコしとるおっちゃん」。一年生の男の子が多分、パチンコ屋でパチ ンコしとるおっちゃんを見とるんですよ。 「パチンコしとるおっちゃん/パチンコしながら/バナナ食べとった」。一年生ですからそのまま表現するんです、見たことを。一人のおっちゃんが パチンコ一所懸命しながらバナナを食べとったんでしょうね。それを一年生の男 の子が見てるんです。ここまでは何でもないでしょう、皆さん。ところがこの後 にどう書いてあったかといったら、「中味捨てて/皮食べとった」。こう書いてあったんです(笑い)。こう書いてあったそうです。中味捨てて 皮食べとった、というんです。一年生の男の子が言うんだから嘘じゃないでしょ う。一年生の男の子にとって、何ともそれは不思議な光景じゃなかったでしょう か。だって皆さん、バナナは、中味と皮であれだけ違うものはありません。とて も皮なんて、まずくて食べれんもんでしょう。その美味しい中味を捨てて、皮を 一生懸命このおっちゃんは食べとったわけです。 なぜですか。そうですね。あんまりにもパチンコに熱中しとるために、中味 と皮が分からなくなったんでしょうね。我々の生活でもそういう事あります、そ れに似通ったことが。しかし、これがお寺の掲示板に書いてあるということは、 笑い話でしょうか。笑い話ならこういうこと書きません。この言葉が道行く人に 呼びかけているんですよ。つまり、「あなたがたは、パチンコをして、バナナの 中味を捨てて、皮食べとる、パチンコしとるおっちゃんを笑えますか」、と。私 達もうっかりすると、このおっちゃんと同じ人生を歩んで行くのじゃないか。 人間としていただいた命、煩悩具足の凡夫でありますけどもね。そのいただ いた中味です。中味は煩悩具足の凡夫ですよ。それ以外の何物でもありませんけ どね。それに仏さまの光が当てられると、その身が教えられると、そこに深い喜 びと、意味と、感動を持つのが人間の命です。人間の命の中味です。 その大事な中味を捨てて、閉じて、儲ったとか損したとか、あの人が、この 人が。そういう娑婆世界、皮ばっかり食べとる。それはパチンコしとるこのおっ ちゃんと変わらないのじゃありませんか。と、いうことを道行く人に呼びかけて いるわけです。 蓮如上人が「仏法はただ聴聞にきわまる」とおっしゃった、これは深い願い があるんですね。聞くことをはずすと人間はとんでもないことになっていきます よ、と。 このことひとつをですね、私達は大事にして行かなければならないのではな いかと思います。だから、聞くというのは基本的に、仏さまの教えを聞く。仏さ まの教えはどこにあるかというと、親鸞聖人や蓮如上人、良き人のおおせとなっ て、ただ今のわが身を照らし、ただ今のわが身を呼びかけて下さっている。 過去の人じゃないですよ、親鸞聖人は。生身の親鸞は七百何十年前になくな ったけれども、法、法となった人ね、呼びかけとなって、本当に生きた親鸞さま はただ今のこの身に未来から呼びかけていて下さる。その親鸞聖人にどこで出遇 うか。どこでその声が聞こえるか、ということが真宗門徒の一番の問題じゃない でしょうか。 (この文章は、門徒研修会での松本梶丸先生のお話から抜粋したものです。) |