おととしですか、高光一也という先生がなくなりました。あの人は絵を描い て日本的に著名な人ですけど、浄土真宗のお寺の住職でもあったわけです。絵の 方があんまり有名になってですね、そちらの方ばっかり言われますけど、本当は あの高光先生と言うのは、お寺っていいますか、仏法っていうものを非常に大事 にされた方なんですね。 その高光先生が本誓寺に来られたときにどうおっしゃったかって言うとね、「 人間というものは、言葉を持った動物だ」と。 その通りですね。他の動物と違うところはいっぱいあるかも知れませんけれ ども、言葉を持っているということは人間と他の動物との根源的な違いですね。 だから皆さん言葉を持ってますから、朝から晩までいろんな事しゃべるでし ょう。だいたいどんな事しゃべってますか。どんな事しゃべってるんでしょうか 。いかにも解ったような事を、何でも知っているような事を、言っているかもし れないですけどね。 高光先生はどうおっしゃったか。 人間は、朝から晩まで言葉を持った動物ゆえ、いろんな事をしゃべっていま す。ところが、だいたい人間のしゃべってる事っていうのは、ぐっと縮めると、 四つの事しか言うとらんのです。四つの事です。四つにおさまるんです。 その四つはどんな事かというと、「そんでも、そやけど、あいつが、こいつ が」(笑)。うまいこと言いましたねえ。うまいことおっしゃったと思いません か。当たらずとも遠からずじゃありませんか。 結局、朝から晩まで、「そんでも、そやけど、あいつが、こいつが」と。こ ういう事ばかり人間は言うとるのではないか、と高光先生はおっしゃいます。そ うじゃないですかねえ。 この中には何がいませんか。皆さん、何がいないでしょうか。そう、自分が いません。自分ていうものが全く見つかっていません。 セリフで言えばどんなセリフが無いか。セリフで言えば、どういうセリフが 無いかと言うと、簡単です。「ああ、そうやったなあ」というセリフ、そういう 世界が無いんです。 お念仏というのは難しいことではなくね、「ああ、そうやったなあ」と、い ただく世界です。こんな簡単な世界だけれども、人間の知恵からはそれが出て来 ないんです。絶対出てきません。人間の知恵から出て来る世界はどんだけ賢い人 でも、「そんでも、そやけど、あいつが、こいつが」。 責任を転嫁する。自分がいないんです。こういう世界に、暖かい、明るい、 寂かな、落ち着きのある世界があろうはずがありません。「ああ、そうやったな あ」という世界。こういううなずきは、仏さまの智慧に照らされなければ出てこ ない世界です。分別からは生まれません。「我」からは。 これを無明と言います。「遠きは近き道理、近きは遠き道理、燈台もと暗し 」。うまいことおっしゃいますね。遠い向こうの人はよく見えるけれども近いも のは見えない。人間の一番近いものはわが身です。脚下です。それを蓮如上人は 、「燈台もと暗し」、燈台の話じゃないんですね。われわれの、教えを聞くこと を忘れる人間の日常性は、燈台もと暗しです。 「ああ、そうやったなあ」。平凡な言葉ですけども人間の分別から生まれる 言葉じゃないんです。気づかされた、と言うか、目が覚めたところから、自ずか ら生まれる言葉なんです。これ、これがナムアミダブツの言葉なんです。だから お念仏というのは、なんにも難しい理屈じゃないんです。「ああ、そうやったな 」と。こういう世界はなかなか人間の世界からは出てきませんよ。その世界を開 く基盤となるのが、聴聞なんです。聴聞という世界が無いと、これ(そんでも、 そやけど、あいつが、こいつが)しかないんです。こういう世界には触れ合う世 界がありません。出遇える世界がありません。暖かさも安らぎもありません。 蓮如上人に、「信なくば、我となりて、詞(ことば)も荒く、諍(あらそい)も出来(しゅっ たい)するものなり(蓮如上人御一代記聞書)」という言葉があります。 信なくば、っていうのは、信心持っていないと、ということじゃありません よ。聞くという世界、聞くという世界が無いと「我」しかないんです。必ずそう です。いい悪いじゃありません。「私」という思いが中心に来るんです。 「私」という思いが中心に来たときに、必ず人間はどうなるか。「我」とい うものの構造ですけどもね。「自我」っていうでしょう。「わしが」、とか、「 私が」、ということが中心になる。教えを聞くっていうことが無いと必ずこれ( 我)が中心になるんです。その構造はどういう構造かと言うと、これも何度も言 う話ですけども、「自是他非」なんです。「自是他非」というのは難しいようで すけど何でもありません。自らをよしとし、他を間違いとする。「我」は必ずそ うです。自分を正当化し、世の中や、おばあちゃんや、嫁や子供や、世間や先生 を悪く言って、自分はよしとする。これが「我」の構造です。 もうひとつ。「他因自果」。自らの結果を他の因とする。「わしゃこうなっ たんは、おまえさんが悪いんや」。こういう世界です。これが「我」と言うもの の正体です。「我」が悪いんじゃありませんよ。我々は「我」しかありません。 一生涯、「我」しかない。しかし「我」からは「我」が見えてきません。うまい こと表現できませんけども、「我」というものは、向こうから「我」を超えてね 、この「我」というものを照らしてくれる仏さまの智慧に出遇わないと砕けると いうことがありません。 「なるほど、そうやったなあ」と。こんな世界を開いていってくれるところ にね、真実の教え、よきひとの教え、如来のまこと、そういうものに出遇ったと ころに、教えを聞くと言うことの、「所詮」というものがあるのではないか、と いうことを感ずるんですね。 (この文章は、門徒研修会での松本梶丸先生のお話から抜粋したものです。) |