「地獄一定すみか」


念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、

また、地獄におつべき業にてやはんべるらん、

総じてもって、存知せざるなり。

たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、

さらに後悔すべからずそうろう


いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。



 歎異抄の第二章に出てくる宗祖の言葉です。

念仏すれば極楽往生が保証されるのかと思いきや、「私は知らない」と言っておられます。

おや、と思う一方で、「地獄に堕ちても後悔しない」の一言には非常に力強い意志を感じます。



「総じてもって存知せ」ず、という言葉は、私は宗祖の「地獄も怖るるに足らず」の覚悟の現れだと思っています。

念仏の教えに出遇った今は、地獄に堕ちても構わないと言えるだけの力を授かったのです。



地獄とは決して死後の世界ではなく、この現実世界に満ち満ちる悪道を象徴したものです。

私達はそこから逃げ出すことばかりを考えがちですが、

宗祖はその世界でこそ生きなければならない、外に行き場所はない、と決意されたのでしょう。



極楽は、地獄に堕ちないための保証ではなく、地獄を生ききるための光です。

何が地獄を生み出すのかを私達に教え、悪道のまっただ中を生きつつ、

悪道に染まらない生き方を教えてくれる世界です。

そのような世界あることを教えるのが、「南無阿弥陀仏」です。

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