恩師・平野修先生から戴いた色紙に書かれた言葉です。
「信心」という言葉の受け取り方を明らかにして下さっています。
通常の言葉の使い方で言えば、「信じる」ということはたんに「疑わない」の意味です。
ですからそこには疑う余地の残されていることが含まれています。
神も仏も信じる場合の信心がそれです。
真宗の信は疑わないのではなく、「疑えない」ということから出てくるのです。
その対象は他でもない、自分自身です。
自身の生きている姿のあるがままが、いま余すところなく明らかにされた。
最早自分に残されたことは、それを受け入れることだけ。
そこに「信」が生まれるのです。
この、自身が明らかにされるということのなかに、如来との出遇いが意味されています。
つまり如来とは、鏡に似た「はたらき」のことなのですね。
自分の思いからは測ることのできない自身の姿に出遇わされた。
そこに「佛、おわします」の信が生まれてくると言えるでしょう。
参照:法話No.5
「自我を砕く信」