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故・平野修師が「六道会・夏の集い」で小学生から高校生までを対象にお話しされた講義録です。「福祉漫画(秋竜山・画)」「なめとこ山の熊(宮沢賢治・作)」「セロ弾きのゴーシュ(宮沢賢治・作)」の三作を題材に、「やさしさってなんだろう」という共通テーマでお話になられました。ここに掲載したのはその第一章「『みんないい人』が教えてくれたこと」の冒頭の部分です。
「人は縁(よ)って生きるもの」
これは三コマのマンガですね。よく見て下さい。そこに「てすりはつかまるためにあるのです」という言葉がありますね。そして一コマ目では一人の人だけがてすりにつかまっています。二コマ目は、「地しんだ」ということで、ぐらぐら揺れている様子が画かれていますね。そしそして三コマ目は、うろたえてかばんを放り投げてつかまつている人もありますし、へっぴり腰であわててつかまつている様子も画かれています。このマンガは何を意味しているのでしょうか。
これはたいへん大事な問題を教えているのじやないかと思うのです。よく各コマを見て、その上で話を聞いていただきたいのです。他のマンガを見ていると考えられないから他の巻は閉じて置いて下さい。いいですね。
このマンガを考える一つの手がかりは、「てすりはつかまるためにあるのです」というこの言葉ですね。
これは何を教えているかというと、言ってみれば、我々はたいへん大切なことを忘れて生きているということが、表されているかと思うのです。大切なことを忘れて生きている。このマンガでは、てすりがあるのに、てすりということを全く忘れて歩いているということが一コマ目ですね。一人の人だけが「てすりはつかまるためにあるんだ」と言ってつかまつていますけれども、きっとこの人は、足が不自由であるか、目が不自由であるか、どちらかなんだろうと思います。他の人は、てすりがあるにもかかわらず、全然見えていないわけですね。両足で階段を平気で歩ける。だからてすりということは忘れている。しかし、平気で立っていられるはずの人間が、地震が起こった時には、立っていられなくなる。それであわてて、てすりを思い出して、それにしがみつく。ということは、普通は忘れているのです。たいへん大事なものであるにもかかわらず、忘れて生きている。それがこの三コマのマンガで読みとることかできることかと思います。
そうすると、われわれはどんな大事なことを見過しているのか、忘れているのか。これはノートに書いて下さいね。「人は縁(よ)って生きるもの」ということです。人は縁って生きるものである。縁っているというのを、一つの例で表わすと、このうすいマンガの本一冊ではなかなか立つことはできません。しかし、もう一冊とで組むと立ちやすい。立つことが可能です。つまり、われわれが自分の両足で立っている、自分の力で立っているという場合も、必ずこの二冊の本のような、「人」という状態で、立っているはずです。「縁って生きている」というのは、何か頼って生きているというのじやなしに、人間が生きるというのは、かならず縁って生きている。足は何に縁っているか。もちろんこれは地面に縁っているわけです。足があるから歩けるかと言えば、それだけでは歩けるはずがないのです。足は地面があるから歩けるのです、縁っているわけです。目があれば見えるというわけじやないのです。目だけがあって物が見えるということはありません。必ず物がなければ見えません。
ですから、「生きている」ということは、はじめから「縁って生きている」ということですね。縁って生ているのです。どんな人も皆、縁って生きているのです。それで何が表されるかというと、「自分」というものによって人間生きているわけではないということです。もっと言えば、私の力で生きるということはあり得ないのです。しかしわれわれは、その「縁って生きている」ということがなかなかわかりにくい生き方をしています。なぜ「縁って生きている」ということがわかりにくいかと言うと、それを邪魔しているいちばんのものが「私」という意識です。めんどうな言い方になりますけれども、「私」という意識は、私だけの意識ですからいつの間にか一人で生きているように思われてくるわけです。
そのことをこのマンガは鋭く言い当てたわけです。自分一人のカで足が動き、階段が上れる。一人で何でもできると思っていた。これも普段からそのように深く考えているわけではありませんで、なんとなくそういうふうに考えているわけですけれども、それが、足が地面に縁って立つことができ、歩くことができるという、その地面が動くものですから、足は立っていることができません。
それで普通は見過ごしていた、普通は見えなかった「てすり」が見えてきた。これも考えれば不思議なことですね。いつもあるのに、気をつけてさえ見れば「てすり」はあるにもかかわらず、普通は見えないわけですね。なぜ見えなくなっているかというと、「私一人で生きている」というその心が、「てすり」を見えなくしてしまっている。そして、立っておれなくなってあわてて大事なバッグなどをも放り投げて、「てすり」にへっぴり腰になってすがりつく。そのことが「人間が縁って生きている」ということを示していますね。そして、立っておれなくなったときに、そこに「てすり」があるということは、一人では立てない人間を、その「てすり」の存在が助けるということです。立てない人間が立てるようになることを助けるのです。
これは、この三日間ずっと問題にしていきますけれども、人間はもともと縁って生きている。そういうことがいちばんもとにあるとするなら、人間は「助ける」ということも、もともとあることじゃないのか。「たすける」ということは、決して特別なことじゃなしに、人間が生きていく上で「たすける」ということも、もともとあることじゃないのか。そういうことをこの三日間考えていきます。