この「歎異抄ノート」は、私が授業の中で高校生に歎異抄を読んでもらおう
と思って書き始めたものです。かなり独断的に読み解いているところもあります
が、彼らにとって「なんやらわけの分からん本」としか見られていなかったもの
が、多少なりとも「へえ、そんなことを言ってるのか」というふうに受け取り直
してもらえたらそれでいいと思っています。とにかく”大谷”高校を卒業してい
くのですから、歎異抄の一節を口にすることくらいあってもいいと思います。
本文の漢字には極力読み仮名を付け(ここではブラウザの関係で付けられま
せんが)、一つ一つの段落も短めに構成するようにしています。生徒さんに一段
落ずつ読んでもらいながら、口頭と板書で内容を補足したり、自分が感じてきた
ことを話したりしています。
歎異抄ノート
はじめに
歎異抄について
歎異抄は「たんにしょう」と読む、浄土真宗の大切なお聖教です。お聖教と いうのは「教えを記した本」という意味です。歎異抄は真宗の開祖親鸞の言葉が 中心になって書かれていますが、著者は親鸞自身ではなく、弟子の唯円という人 であろうと考えられています。
歎異抄という本の名前は、その序文の「異なることを歎く」という表現と、 後序の「なづけて『歎異抄』というべし」という言葉から来ています。「たんい 」とは読まずに、「たんに」となまるのが特徴です。抄というのは「いくつかの 文章を集めたもの」という意味です。
この本が唯円によって書かれたのはいまからおよそ七百年ほど前です。現代 とはずいぶんと社会の状況が違いますが、この本はそれ以降の時代の多くの人に 読み継がれてきました。しかもこの本はたんに佛教書の古典として読まれたので はなく、多くの人の心の支えになっていたのです。七百年ほども前に書かれた本 のどこに、現代の私達に訴える力があるのでしょうか。歎異抄のテーマ
「源氏物語」を考えてみて下さい。歎異抄よりももっと以前に書かれた作品 ですが、今でも多くの人の心をつかんではなしません。それは源氏物語に語られ ていることが、いつの時代にもある「男と女の物語」だからです。男と女が惚れ 合い、別の男女がそれに嫉妬したり横恋慕したりすることは、いつの時代にも変 わらない人間の性分です。ジェット機が空を飛び、パソコンで世界の情報が手に 入るようになっても、人間の心の中味は変わっていないのです。
それと同じく、歎異抄で扱われている問題も、いつの時代も変わらない人間 の問題なのです。例えば
「私はなんのために生きているのか」とか、
「自分のようなものに生きている価値があるのか」とか、
「どうせ死ぬならどんな生き方をしても同じではないか」とか、
「死んだらどうなるのかな」とか。
今の社会の大人達も、青春時代と言われる頃に多少はこんな問題に悩んだは ずです。しかしいつの間にかそんなことも忘れて、分かったような顔をして生き るようになってしまっているのです。だから、これらの問いにきちんと答えられ る大人は、ほとんどいません。
現代の高校生諸君は自分自身のことについてどれくらい考えるのでしょうか 。大人達は「近頃の若いモンは何も考えとらん」などと言っていますが、やはり それなりの問題は色々抱えて生きているはずです。友達づきあいの悩み、恋愛の 問題、部活動のしんどさ、卒業後の進路選択。歎異抄はそれらの問題についての 一番根っこを答えてくれているお聖教です。第一章
読めない理由
ではまず、とりあえず、第一章を読んでみて下さい。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて・・・」
何回も読んでみると、読むだけのことはできるようになると思います。し かし古い言葉で書いてあることと、佛教独特の言葉を使っていることとで、どう いう意味なのか全くちんぷんかんぷんですね。とりあえず佛教の言葉はそのまま にして、古い言葉の部分を現代的に直してみましょう。
まず最初の文章は、「弥陀の誓願不思議に助けられて極楽に生まれるのである」と信じて、「念 佛しよう」と思い立つ心がおこれば、それがつまり「摂取不捨の利益」を受け取 るということなのです。
となります。じつはこれだけの文章の中にものすごい中味が込められているの ですが・・・やっぱりわけわかりませんね。
まず「極楽」というのは、いろいろなことで悩み苦しめられる人間を救うた めに阿弥陀佛が用意した「救済のための世界」です。そこに生まれることが出来 たら私達はいま苦しめられているあらゆる事から解放されるのです。で、どうや ったらその世界に生まれることができるかというと、私達自身の努力とは全く関 係なく、「弥陀の誓願」という不思議な力によって生まれることが出来るのです 。その不思議な力を受けるためにはどうすればいいかというと、阿弥陀佛はたっ た一言「本当に極楽に生まれたければ念佛せよ」と言っているのです。極楽に生 まれたいと願い、念佛しようという心が起こりさえすれば、あとは誰一人漏れる ことなく救われるという御利益が与えられるのです。メタファー
「念佛しさえすれば救われる」。あなたはそんなことを信じますか。多分信 じられないでしょう。最初からなんの疑いもなくそんなことを信じられるとした ら、あなたは多分どうかしています。本当は、巡りめぐって「ああ、本当にここ に言われているとおりの事なんだな」と分かって欲しいのですが、今はまず無理 でしょう。
佛教は時として、あるはずのないことを語ります。例えば一人の人間が数億 年も修行したとかいうことが正信偈にも出てきます。「五劫思惟之摂受」がそう です。これらはすべてメタファーなのです。たとえ話とか、比喩とか言います。
イソップ物語はほとんどが人間の心をメタファーを使って語る教訓です。「 アリとキリギリス」のお話などは「苦あれば楽あり」ということを働き者のアリ と楽しいことしかしたがらないキリギリスというキャラを使って語っています。 あの物語を読んで「そんな馬鹿なことがあるか、アリとキリギリスが話をするわ けねえべ」といっても始まりません。
佛教もメタファーで人間の心を語ります。しかしまんざらうそを言っている わけでもないので、メタファーのままを納得しても問題はありません。しかしメ タファーを「そんな馬鹿なことがあるか」としか受け取れない人が多いので、わ ざわざまたもとの人間の心についての直接的な説明に直さなければならないので す。
経典に描かれた「極楽」のありさまがメタファーです。極楽は金銀で彩られ た超豪華な世界です。まるで人間のような姿をして掛け軸に描かれている「阿弥 陀佛」もメタファーです。この阿弥陀佛という佛様は、ある国の王様が出家して 、何億年も修行して、尊い誓いを起こされて佛になられたというのです。しかし いくら王様でも、佛教の修行者だとしても、一人の人間が何億年も生きられるは ずがありませんね。
この佛様の修行中の名前を「法蔵菩薩」というのですが、どうやらこれは一 人の人間を表すのではなく、私達生きとし生ける者すべての「いのちの営み」に つけられた名前だと言えばいいのかもしれません。つまり数億年に渡って私達の いのちがなにかを求め続けたということです。何を求め続けたのかは、歎異抄を 読んでいくと分かってくると思いますが、ここでは大ざっぱに「救いの道標(み ちしるべ)」とだけ言っておきます。そして出された答えが「極楽浄土」だった というわけです。
もちろん極楽もメタファーとして表現されていますからそのままのものが実 在するとは考えない方がいいです。描かれたそのままの「モノ」があると考える ことを「実体化」などと言ったりしますが、それは間違いの元です。オウム真理 教に入信した人が脱会しようとしたときに先輩修行者にどう言って脅されたかと いうと、「地獄に堕ちるぞ!」だったと言います。彼らは地獄を死後の世界に実 体化していたわけです。まあ、地獄は実在といってもいいのですが、それは死後 の世界ではなく、この世に実際にあると言わねばなりません。「極楽」の受け取り方
メタファーとしての極楽の受け取り方の一つですが、真宗の佛壇は本来は金 ピカです。お寺の御内陣も金箔が張りめぐらされており、佛様も本当は金ピカで す。そして佛様は体の周辺から光を放っています。佛と佛の世界は光り輝いたも のとしてメタファーされています。それが何を表しているかというと、第一に私 達の世界が真っ暗闇であるということ、第二に、極楽という世界に救済があると いうこと、です。
私達の世界が真っ暗闇だということは現代社会の迷走ぶりを見れば分かると 思います。明るいのは物理的空間ばかり。人間の心は「本当に尊いもの」を見失 い、半分暴走状態です。国同士の戦争や内戦、政治家の腐敗、警官の汚職、幼児 虐待、学級崩壊。この地球自体も温暖化や異常気象、環境汚染で、将来は悲観的 です。「温暖化に歯止めはかけられない。もう遅すぎた。」と国際的研究機関が 発表しました。
「どちらの方向へ向いて進んだらいいのかわからない」。これが私達の世界 が真っ暗闇だという理由です。進むべき方向を見失い、日々の生活に疲れ、それ でも生きていなければならないということは何となく思う。結局その日限り、そ の時限りの快楽を求める生き方しか見えなくなっています。呼びかけの主、阿弥陀佛
そのような私達に対して、佛教の世界から一つの答えが示されているのです 。「目を覚ませ」と。私達が生きているその姿は、本来のあり方から見れば非常 に不自然な姿をしているのです。しかしその不自然さには全く気がつかず、今あ るような生き方しかできないでいるのです。みんなが目指す方向に向かって自分 も歩き続けなければ「社会の落ちこぼれ」になると、無意識のうちに脅迫されて いるようなものです。
だから、「目を覚ませ」です。目を覚まして、すべてのいのちが本来生きて いる姿のままに生きられる世界を願う、そのような生き方をする者となれ、とい う呼びかけが佛教からなされているのです。いったい、この呼びかけを発する者 は誰なのか。人の姿、人の声を通じてなされているようだけれど、具体的にどこ の誰、と言うわけでもありません。強いて言えば、私達すべての者に共通する「 いのちの根っこ」から響いてくるようにも見えます。
私ではない何者か、しかし私から離れてあるわけでもない何かから発せられ るはたらき、ということで佛教ではこの不思議なはたらきに「他力」と名付けて きました。この他力は私達を目覚めさせる「はたらき」のことです。このはたら きだけが私達に感じ取られるのですが、それではつかみ所がないので、はたらき をもたらした主に姿形を与えて「阿弥陀佛」と呼んできたのです。
他力というのは、「自力ではない」ということを表しています。目覚めると き私達は自分の力で目覚めるのではなく、なにかからの呼びかけによって目覚め るのです。けれど決して誤解しないで下さい。他力という言葉を使っても、「死 者の魂」だとか「霊魂」などというものを指して言っているのではありません。 例えば「風」は目に見えませんが、涼しさを運び、木々の枝を揺らすはたらきを 持っています。昔の人はこの風というはたらきに対して「風神」という姿を持っ た主を与えました。それと同じく、「目覚めさせよう」というはたらきに対して 「阿弥陀佛」という主が生み出されたのです。
もちろん、この「目覚めて下さい」という呼びかけがこの言葉のままに聞こ えて来るというのでもありません。この呼びかけはどちらかと言えばまず私達自 身の生活の中での不満や苦悩として現れてきます。「なんでこんなことをしてな きゃいかんのや」「どうしてこんなに苦しいのだろう」という思いとしてです。 そこから「何かがおかしいのではないか」「こんな生き方をしていていいんだろ うか」という方向に進むことができれば、また新しい道、つまり新しい生き方が 開けてきます。「往生」の意味
どんな生き方が開けてくるのかというと、浄土真宗では「極楽に往生するこ とを願う」という言葉で表しています。今日「往生」という言葉は、イコール「 死ぬ」という意味で使われるようになってしまっています。しかし往生という言 葉は「往きて生まれる」という意味です。つまり全く新しい世界に往く(行く) ことです。そのことを「生まれる」と表現しているのです。
おそらくいま現に生きている私達がもう一度生まれるためには、とりあえず 一度死ななければならないとでも考えるために、往生が死ぬという意味に変わっ てしまったのでしょう。しかしこの「新しい世界に往きて生まれる」ということ こそが「目覚める」という言葉の意味に他なりません。今あるようにしかこの世 界を見ることが出来ない私達に、「全く別の世界の見方があるのだ」ということ を教えるのが「目覚めよ」の言葉です。
例えば最近、出生前診断という医療技術があって、生まれる前の胎児の段階 で、将来どんな病気が出てくる子であるか、どんな遺伝病を抱えているか、とい うことが大体分かるようになってきています。そして、はっきり障害を持って生 まれてくると分かった胎児の場合には中絶が勧められる場合もあります。「障害 を持って産まれてくる子はカワイソウだし、親にとっても社会にとってもいいこ とはない」というのが現代社会のものの見方です。
本当にそうなのでしょうか。乙武洋匡さんの「五体不満足」を読むと、「障 害者はカワイソウ」という言葉がなにか変だということを感じるでしょう。中村 久子さんの生涯を教えられると、障害を持つことによってかえって見えてくる世 界があることを知るでしょう。同じ事は星野富広さんの絵も教えてくれます。現 代社会のものの見方を突き抜けて、「いのち本来の姿を尊ぶ」という生き方を考 えなければなりません。
いのち本来の姿が尊ばれている世界ってどんな世界かというと、それを描い ているのが「極楽(浄土)」です。阿弥陀経という経典に「池中蓮華・大如車輪 ・青色青光・黄色黄光・赤色赤光・白色白光」という言葉が出てきます。極楽の 池に咲く蓮の花を描写した部分ですが、花の色は生命の個性を表しています。青 い花もあれば黄色い花もある。そのとりどりの色に応じて天から光が射している 、つまり光り輝いているということです。
男も女も、老いも若いも、金持ちも貧乏人も、賢者も愚者も、美人美男子・ ブス醜男、健常者も障害者も、白人も黒人も、日本人もコリアンも、すべてが個 性です。なんら恥ずべきではないはずのことが、この社会では恥ずかしいこと、 あるいは差別される理由になってしまっています。つまり、光をあびることので きる個性が限られてしまっているのです。そんな世界は突き抜けてゆけ、という 願いが私達にかけられているのです。突き抜けていって出会った新しい世界が「 極楽」だというわけです。
往生したとしても、私が生きている環境は何も変わりません。私自身がなに か変わったものに変身するわけでもありません。しかし目覚める以前と以後では この世界に対するものの見方、感じ方、考え方ががらりと変わります。なにか広 々とした場所に引き出されたような感じがするのかもしれません。「往生をとぐ る」というのはそんな意味です。
もちろん私達はまだ往生できていません。しかしいったん歎異抄の教えると ころに促されたら、少なくとも何を目指して生きていったらいいかは分かります 。つまり極楽という世界を自分の世界にして生きるという方向、極楽という世界 を目指して生きるという方向がはっきりします。これで、どちらに向かって歩ん でいけばいいかわからないという状況から出ることが出来ます。それが「往生を 願う」という新しい生き方です。「往生を願う」という生き方
例えば現代社会は大量生産、大量消費の時代です。大量に消費すれば当然大 量の廃棄物(ゴミ)が出ます。そのゴミを私達は自然環境に垂れ流ししてきまし た。ゴミを燃やしたガスは空中へ、製品を洗った汚水は川や海へ、燃えないもの は地面の下へ。しかしそれらの廃棄物がいま世界中で人間以外の生物、そして人 間自身のいのちをむしばんでいます。自分達の快楽だけ追い求めるのではなく、 この地球上のすべてのいのちを尊ぶならば、生き方そのものを変えていかなけれ ばならないということが見えてくるでしょう。それも一つの往生を願う姿です。
阿弥陀経に極楽のありさまが描かれる中に、「共命(ぐみょう)」という名 前の鳥が出てきます。一つの胴体から二本の首が生え、頭がひとつずつ付いた、 不思議な鳥です。この鳥は頭が二つですから、人格(鳥格?)も二つあるように 思われますが、胴体は一つなのです。一方の命が途絶えれば、もう一方も死んで しまいます。共命というのは一つのいのちを分かち合っているという意味です。 変な鳥がいるなあと思われるでしょうが、私達が共命の鳥です。分かち合う命の 中味がなんなのか、一人一人がよく考えてみて欲しいのです。<続く>