昨年日本でも、脳死は人の死である、と法律で決められました。
これまで長い間、心臓が永久に停止したことで人の死とされてきました。
心臓が止まり、「息を引き取る」ことが人の死だったのです。それが今日
では、心臓が動いていても人は死んだことになるのです。
なぜこのように「死の前倒し」が行われたのかというと、臓器移植の成
功率を高めるためです。心臓をはじめ、臓器が新鮮であればあるはど、臓
器移植は成功率が高いのです。脳死によつて定められる死は、臓器移植の
ために作られた死なのです。
死には二つの段階があります。一つめは、法律に基づいて決定され、医
師によつて判定される段階(死の判定)です。二つめは、「この人は死ん
でしまったのだ」と周囲の人が認める段階(死の受容)です。
「息を引き取ることが死である」と誰もが考えていた時代では、この二
つの段階ははぼ同時にやってきました。今日ではそれが大きく離されてし
まったのです。
この二つの投階で、どちらが人間にとってより重要かと言えば、それは
間違いなく「受容」の段階です。人間は関係を生きる存在であり、受容と
はこの関係の中で行われることだからです。
たとえ感情を失い、言葉を発しなくなったとしても、その体にぬくもり
が残っている限り、死を受け容れることが出来ないと感じる人がいても不
思議ではありません。そのような思いも最大限尊重されるべきです。
「欧米ではすでに脳死が人の死として定着している。日本ではその点が
遅れているから、臓器移植も行われにくいのだ」という意見があります。
しかしそれは、生命に対する受け取りがそもそも違うのであって、決して
遅れているのではありません。
家族・知人の死を受け容れる刻(とき)というのは、人間関係において
最も尊重されるべき時です。他者が土足で踏み込むべき場所ではありませ
ん。
人間は、脳の働きがあることによつてのみ「生きている」と認められる
べきものではありません。そのような考え方のもとには、優れた働きをす
る脳の持ち主は人間として価値が高く、働きの劣った脳の持ち主は価値が
低い、という考え方があります。
人は、その全存在をもって他者と関係を持ち、その関係の中で人間とし
て生きているのです。言葉や感情や、ましてや脳波だけが生きている証
(あかし)ではありません。
この脳死問題は、「あなたにとって、人間が生きているとはどういうこ
とか」という問いを、否応なく私達に突きつけているといえるでしょう。