最近、先祖のたたりをかたって大金をまきあげる宗教団体があとをたち
ません。「先祖があなたにたたっている。だからあなたの生活は苦しいこ
とが多いのだ。早くきちんと供養しないとろくなことにならない」などと。
「先祖の供養をしなければならない」という人はたくさんおられます。
お盆やお彼岸にお墓参りをしたり、年忌法事を勤めることで、供養したつ
もりになっていませんか。また、家には仏壇が安置されていても、先祖を
まつる場所になっていませんか。
ところで、本当にご先祖様はたたりで私たちを苦しめたりするのでしょ
うか。
現代の科学文明の中に生きている私たちは、普通ならたたりなど気にも
しないはずです。しかし自分の身のまわりで、考えてもいなかった不幸や
不都合がおこったりしたとき、私たちは「たたりでもあるのかな」と考え
てしまいます。
私たちが先祖に対して持つ思いは、本当に自分勝手なものです。先祖の
魂が宿っていると思ってお盆やお彼岸にお墓参りに行くのでしょうが、そ
れ以外は別によりつきもしません。各家庭にある仏壇も「ホットケ様」に
なっている家が多いようです。
自分達の都合に会わせて先祖の居場所や気持ちを考えているのが私たち
だといえませんか。
たたるにせよ、守って下さるにせよ、それは自分の都合で先祖を見てい
るだけです。
そもそも私たちにとって先祖とは何でしょうか。私たちよりも先に生ま
れて、生きて、そして死んでいった人達は、私たちに何をもたらしてくれ
たのか・・・。それは間違いなく、「いま、ここにこのようなものとして、
私がいる」という事実ではないでしょうか。
両親、祖父母、そのまた親とさかのぼれば、いかに多くの人間が私のい
のちに連(つら)なっているかはすぐにわかります。言ってみれば私はそ
の人々の生命の流れの合流点です。成功した先祖も、のたれ死にした先祖
も、すべて私の中にあります。
私というものは私に始まるのではありません。多くの人の生命の流れを
受け継いでいます。外見も、性格も、そして自分の生きる環境も、自分の
意思だけで決められるわけではありません。
自分に不都合なことを引き受けたくない人は、いつまでもたたりにおび
えつづけなければなりません。しかし、私たち加賀門徒の先輩がこんな言
葉を伝えてきました。「遭(お)うだけのことには遭(お)わにゃならん
がや・・・」。何とも力強い響きが感じられませんか。
私たちにとって都合のよいことも悪いことも、私を目覚めさせる出来事
として受け止め生きていく、それが浄土真宗です。