現代文 「御文」 第五帖 (抄)


ここに掲載するのは、小松教区で編集、刊行されました「現代文御文(第五帖)」の一部(抄)です。

著作権は小松教区教化委員会にあります。本はすでに絶版となっており、再版の予定はありません。

なお、Netscape 4.*以上での閲覧をお奨めします。

収録:第一通「末代無智」、第五通 「信心獲得」 、第十通 「聖人一流」

    第十一通 「御正忌」 、第十六通 「白骨」


第一通「末代無智」


(原文)

末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして、

阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、

一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重な 

りとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし。これすなわち第十八 

の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうえには、ね 

てもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あ 

なかしこ、あなかしこ。                      




(現代文)

 末代といわれる今の世の中に生きるわれわれが、真実の人生を得るため 

には、思い惑うことなく、阿弥陀仏の本願をこころにかけて、その外の道 

に目をそらさず、ひたむきに念仏を依り処として生きるよりほかに道はあ 

りません。たとえ罪業の深さに苦しむことがあろうとも、かならず何もの 

にもさまたげられない道が開かれてきます。それが阿弥陀仏の本願の中で 

誓われている事実であります。                    

 その事実を深く信じて人生の真のよろこびを得たうえには、ねてもさめ 

ても、いのちあるかぎり、称名念仏すべきであります。         

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏                    


注釈

末代:末法・末世ともいう。お釈迦さまがなくなった後を年月がすぎるごとに正法 ・像法・末法と分け、仏法という真理さえも時代とともに伝わりにくくなる状況 をいう。末代とは、終末観ではなく、蓮如上人が「未来悪世のわれら」といわれ ているように、その時代に生き、仏法に出遇いたいと願う者の、自覚としての時 代認識をいう。

阿弥陀仏:浄土真宗の本尊。阿弥陀如来、略して弥陀如来、弥陀ともいう。蓮如上人の 「御文」は、阿弥陀仏の本願を私達に伝えるためにあらわされたもの。

本願:自分の立場・経験だけでしかものを見ることのできない私たちに、「共に生 きる」生き方こそ、私達が求める道であったと、目覚めさせるはたらき。親鸞聖 人は「他力とは如来の本願力なり」といっておられる。

念仏:「南無阿弥陀仏」と口にしようと思う心ひとつおこれば、すでに阿弥陀仏の はたらきの中にあったことが知られ、口にする念仏は報恩感謝の念仏であると親 鸞聖人はいわれた。称名の「称」は、単に称える(唱える)ということではなく 、本願のこころに称(かな)うという意味がある。

罪業:生きて行くかぎり、犯さざるをえない人間としての罪。道徳に反するとか、 法律に触れるということではなく、仏道を歩むものにとっての自覚的な罪悪感。 蓮如上人は「末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの」といわれている。

第五通「信心獲得」


(原文)

信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうると 

いうは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆえに、南無と帰命 

する一念の処に、発願回向のこころあるべし。これすなわち弥陀如来の、凡 

夫に回向しましますこころなり。これを『大経』には「令諸衆生功徳成就」 

ととけり。されば無始已来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく、

願力不思議をもって消滅するいわれあるがゆえに、正定聚不退のくらいに住 

すとなり。これによりて、煩悩を断ぜずして涅槃をうといえるは、このここ 

ろなり。此の義は当流一途の所談なるものなり。他流の人に対して、かくの 

ごとく沙汰あるべからざる所なり。能く能くこころうべきものなり。あなか 

しこ、あなかしこ。                          




(現代文)

 真実の信心に生きるとは、念仏往生の本願に目覚めることです。それは、南  

無阿弥陀仏のいわれを知ることです。この本願をたのむ一念こそ、本願のはた  

らきであり、本願がその人の力になっているのです。このことを弥陀如来より  

われら凡夫にとどけられた真実のすくいといいます。             

 この道理を『大無量寿経』には「令諸衆生功徳成就」と説かれています。こ  

れによって、いつ始まったともしれない人間としての苦悩のすべてが、本願の  

力で消滅するという道理がありますから、正定聚不退のくらいに身をおくこと  

になるのです。これが、煩悩の身のままに涅槃を得るといわれるところであり  

ます。                                  

 このことは大功なことですから、誤解されないように、よくよく真実の信心  

に生きるべきであります。                         

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏                       


注釈

「大無量寿経」:『無量寿経』という。阿弥陀如来の四十八願がくわしく語られ、すべての人 がともにすくわれる道は念仏であることが説かれている。親鸞聖人は、仏道の真 実をあらわす経典はこの経典のみであるという確信から『大無量寿経』といわれ た。『観無量寿経』『阿弥陀経』とあわせて『浄土三部経』という。

「令諸衆生功徳成就」:「もろもろの衆生をして功徳成就せしむ」。阿弥陀如来はすべての人々にた いして功徳を実現させる根源の力であり、このはたらきにまかせることによって 、はしめて我々の願いは実現するのである。

正定緊不通:「正定聚」とは、阿弥陀仏の本願を信じて、まさしく仏になると定まった人 という意味。「不退」とは、とどまることのない歩みをいう。すなわち、念仏に よって自分の人生を生き抜く勇気をたまわり、仏道を歩み続けていくこと。

煩 悩:心身を煩わし悩ませる一切の妄念をいう。百八煩悩、八万四千の煩悩といわ れるほど多い中で、貪欲・瞋恚・愚痴の三つは特に三毒の煩悩という。その煩悩 から離れられないものが凡夫であり、この凡夫こそ阿弥陀仏が本願によってすく うと誓われた対象である。

涅 槃:梵語ニルバーナの音訳で、煩悩が消滅して絶対自由になった状態。釈尊によ って証され、説き伝えられている「さとり」の内容である。念仏者は阿弥陀仏の 本願の力によって、煩悩を断つことなく涅槃を得ることができる。


第十通「聖人一流」


(原文)

聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。そのゆえは、

もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力と 

して、仏のかたより往生は治定せしめたまう。そのくらいを「一念発起入正 

定之衆」とも釈し、そのうえの称名念仏は、如来わが往生をさだめたまいし、

御恩報尽の念仏と、こころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ      




(現代文)

 親鸞聖人が勧めあらわされた仏道は、ただ信心を宗とされています。それは  

念仏よりほかへの思いを断ち切り、一心にに阿弥陀如来の本願を信ずるとき、  

おのずとその本願を生きる身とされるからです。               

 これを「一念発起 入正定之聚」といいます。そのうえで称える念仏は、阿  

弥陀如来が私の生きてゆく力となってくださった御恩に報い、生涯をつくす念  

仏といただくべきであります。                       

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏                       


注釈

「一念発起 入正定之聚」:「念仏しようというこころがおこるとき、まさしく仏になると定まった人の 数に入る」。阿弥陀仏の本願に呼応して、あらゆる人とともに生きようとすると きに、歩みの退転の危機を克服させ、支えてくれる仲間が得られること。

第十一通「御正忌」


(原文)

そもそもこの御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳を  

なさんとおもいて、聖人の御まえにまいらんひとのなかにおいて、信心を獲得  

せしめたるひともあるべし。また不信心のともがらもあるべし。もってのほか  

の大事なり。そのゆえは、信心を決定せずは、今度の報土の往生は不定なり。  

されば不信のひとも、すみやかに決定のこころをとるべし。人間は不定のさか  

いなり。極楽は常住の国なり。されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽  

をねがうべきものなり。されば当流には、信心のかたをもってさきとせられた  

る、そのゆえをよくしらずは、いたずらごとなり。いそぎて安心決定して、浄  

土の往生をねがうべきなり。それ人間に流布してみなひとのこころえたるとお  

りは、なにの分別もなく、くちにただ称名ばかりをとなえたらば、極楽に往生  

すべきようにおもえり。それはおおきにおぼつかなき次第なり。他力の信心を  

とるというも、別のことにはあらず。「南無阿弥陀仏」の六つの字のこころを  

よくしりたるをもって、信心決定すとはいうなり。そもそも信心の体というは 、

『経』にいわく「聞其名号 信心歓喜」といえり。善導のいわく「南無という  

は帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏というはすなわちその行」とい  

えり。「南無」という二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、うたがいな  

く一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。さて「阿弥陀仏」とい  

う四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなくたすけたま  

えるいわれが、すなわち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。されば南無阿  

弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいうなり。こ  

れすなわち他力の信心をよくこころえたる、念仏の行者とはもうすなり。あな  

かしこ、あなかしこ。                           




(現代文)

 このたびの御正忌報恩講に参詣され、御恩報謝のおもいで御影の前に来られ  

た人の中に、真実に信心を得られた人もあり、またそうでない人もあると思わ  

れます。これこそ一大事であります。真実の信心を決定することがなければ、  

この世に生まれた本当の目的である浄土の往生が果たされないからてす。いま  

だ真実に教えをいただいていない人は、はやくその教えに出遇うことです。   

 人間の世界は、どこまでも不安定なものです。仏の国は確かなせ界です。不  

安定な人間の世界よりも、変わることのない仏の世界に生きることを願うべき  

です。親鸞聖人があらわされた仏道は、なによりも信心の決定を先とされてい  

ます。そのこころを得なければ、一生が無駄になります。このことにはやく気  

づいて、浄土の往生を願うべきです。                    

 世間では、ただ口に念仏を称えさえすればたすかる教えのようにいわれてい  

ますが、それは大きな心得ちがいであります。他力の信心とは、南無阿弥陀仏  

の六字となっている阿弥陀如来を深く信ずることよりほかにはありません。   

 信心とは、『大無量寿経』に「聞其名号 信心歓喜」と言われ、善導大師は  

「南無とは帰命であり、仏心のはたらきである。阿弥陀仏は真実の行である」  

と言い切っておられます。                         

 南無という二字は、われわれのこざかしさのすべてを捨て、教えにしたがっ  

て一心に阿弥陀仏をたのむこころです。阿弥陀仏という四字は、一心に弥陀を  

たのむ人を、そのままたすけるというはたらきです。南無阿弥陀仏の六字をこ  

のように開きえたことを、信心をとるといいます。これが他力の信心に目覚め  

た念仏の人であります。                          

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏                       


注釈

御正忌報恩講
:親鸞聖人の御命日である十一月二十八日を期して勤められる法要。親鸞聖人 の木像あるいは絵像を「御影」と呼び、その御影の前で、親鸞聖人によって阿弥 陀仏の本願に出遇えた喜びを分かち合い、教えを聞き、たがいに信心を吟味する 機会とされる。

「聞其名号 信心歓喜」:「阿弥陀仏の名号を開いて、心の底からよろこぶ」。念仏を称えていても、 よろこびがともなわないのは、みずからの思いにとらわれ、名号にまでなった本 願のこころに出遇っていないからである。

善導大師:浄土教を大成した中国唐代の高僧(613〜681)。耳から入る知識で仏法を解 釈することをやめ、毛穴から染み込んでくる仏法のはたらきに信順した人。議論 する仏法から、仏法に生きようと願う立場で釈尊の教えを見直された人であるか ら、親鸞聖人は「善導ただ独り仏の正意を明らかにされた」とほめたたえられて いる。

第十六通(白骨)


(原文)

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この  

世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をう  

けたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体  

をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、  

おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば  

朝には紅顔ありてタベには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば 、

すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅  

顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまり  

てなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事なら  

ねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞの  

これり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少  

不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏  

をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかし  

こ。                                   



(現代文)

 人間の浮き草のような相(すがた)をよくよくみれば、まことにはかないも  

のは、この世での限られた幻のような一生です。これまで万年を生きた人など  

聞いたこともありません。一生は過ぎやすいのです。だれが百年のあいだ同じ  

姿を保つことができたでしょうか。自分が先か他人が先か、今日とも明日とも  

わからず、老少の定めもなく死んでいく人は、木の葉にやどる露、しずくのよ  

うに多いことです。                            

 朝には紅顔であった若者も、そのタベには白骨になってしまうような身であ  

ります。ひとたび無常の風にあえば、たちまちに眼は閉じ、ただ一つの息も止  

まれば、紅顔はむなしく変わり、桃の花のように美しかった姿も失われてしま  

います。親類縁者が集まり、どれほど嘆き悲しもうとも、何の甲斐もありませ  

ん。野辺に送って火葬にすれば、ひとすじの煙りとなって白骨だけが残ります 。

あわれという言葉などでは、とても言いつくせることではないのです。     

 このように人の世のはかなさは、老いも若きも区別のないことですから、だ  

れもみなはやく人生の一大事に目覚めて、阿弥陀仏の教えを深く信じ、ただ念  

仏申すばかりであります。                         

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏                       


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