〜赤本(聖典)と白本(新聞)の間で〜




99/12/06 「世間と出世間」

 自己啓発サークルから出発した「ライフスペース」という団体が今マスコミ をにぎわせている。ホテルの一室で発見されたミイラ状の人体を「生きていた」 と言い、警察の解剖を「殺人」と批判している。つまり、「患者は快方に向かっ ており、その兆候がはっきり見えていたが、解剖によって殺されてしまった」と 主張している。

 ”死体”が転がっていて、「おまえが殺したんだろう」「いや、俺じゃない 」ということなら、お互いの土俵は同じであると言える。しかしこのライフスペ ースの一件は最初から意表を衝いている。なにせ、「死んではいなかった」とい うのだから。

 もちろん警察の側も脈拍や呼吸の有無など、死を確認するいくつもの検査を したであろうが、それはこちら側の論理であって、ライフスペースの側に通用す るものではない。極端な話、「心臓が止まっていたって、私達にとっては死んだ とは言わない」と主張するかもしれない。

 互いの間に共通して認められる地盤があればこそ、それを元に話を進めるこ とができる。しかし今の場合その共通の地盤というものがあるのかないのかすら 解らない状態である。おそらく裁判になったとしても彼らは自分達の行為を「殺 人」とは認めないであろう。

 この一件を「非常識」で片づけるのはたやすい。だが、我々が依拠している 「常識」とやらはそれほど確固としたものなのだろうか。常識というのは「みん ながそう決めているのだ」というだけのものであって、「多数決で真理が決まる のか」と問われると答えようがないのも事実なのだ。太平洋戦争だって、多数決 でやっちまったことなのだ。

 もちろんいずれは法体系の中で何らかの判決が出るだろうが、ライフスペー スの会員がその判決に納得することは期待できない。「だって心臓が止まってた って生きてるんだも〜ん」「違うも〜ん。心臓が止まってたら死体なんだも〜ん 」。・・・なんだかこのレベルのやりとりでしかないような気がしている今日こ の頃。

 ただ、仏教は出世間の法であり、その意味では「常識」を超え出たものであ ると言える。常識を超えるということと、非常識ということの間に明確な一線を 引くとすれば、それはどういう境界線であろうか。

 「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに」 と語る歎異抄の一節は、人間社会に流布される一切の常識に対して「絶対に正し いなどということはあり得ない」と明かしているのだろう。そして「ただ念仏の みぞまことにておわします」と続く一句は相対を相対と明かす(「絶対ではない 」と教える)知恵を教えているのであろう。

 非常識は常識と並列にあるのみであって、決して超えてはいないということ か。

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