〜赤本(聖典)と白本(新聞)の間で〜




2004年9月6日

世界の中の日本、日本の中の私

ロシアの武装集団による学校占拠事件は、多大な、心痛む犠牲を出しての終結となりました。犯人グループはイスラム原理主義系の組織で、おそらくはチェチェン紛争と関係を持った行動であろうということが報道されています。

なぜロシアの中で今日これほどチェチェン共和国が紛争の種になるのか、この前から少し調べてみました。いくつもの要因があることが分かりまして、長い歴史的な背景、チェチェンの埋蔵資源(石油)とロシアのエネルギー政策の問題、民族問題、プーチン大統領のPR政策、などがあるようです。

このチェチェンを巡る状況、あるいはイラクの現状と私たちの生活は決して無関係ではないと思うのです。イラクにアメリカがあれほど介入している理由が、世界有数の埋蔵量が予測されている石油にあることは明らかです。そのアメリカに付き従っている日本、その日本で超世界的水準の生活を享受している私たちは、イラクの人々に今日の混乱を押しつけている張本人だとも言えるのです。ロシア南部のあの学校で起こった出来事は、その背景の中で必ず日本の私たちの在り方と関係を持っていると思います。単に「お気の毒な・・・」で済ませられることではないのです。

仏教で「縁起」という事を言います。「『すべての存在は無数無量と言ってよいほどの因縁によってあり得ている』という、仏教の基本思想を表す重要な用語(『仏教が生んだ日本語』より)」です。(「縁起がよい・悪い」という使い方はこの語本来の用法ではありません)。ロシア南部での惨劇と日本での私たちの日常、関係ないように見えて必ずどこかで結びついているということを「縁起」という言葉が表しています。

「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」・・・歎異抄の第五章にこのような言葉があります。この世に生きる一切の者達と私は、何度も生まれ変わって生きている間に親子ともなり兄弟ともなっているのです、という意味になります。まるで仏教が輪廻転生を認めているかのような言葉ですが、これはこれで親鸞当時の一般的な生命観に訴えるような「言い方」なのだろうと思います。大事なことは、この私がこの世に生きる誰とも無関係な存在ではあり得ない、ということです。

私という存在は、私以外の人々とのつながりの中でのみ存在し得ています。それが個々のいのちの本来的な姿なのでしょう。けれどいつの間にか、そのつながりの部分が感じ取られないようになっているのです。(「私」という言葉自体が、他と切り離した存在を表現するものですから)。今日はますます、各自がこの切り離された自分の中に安住する傾向が強くなっているように思います。自室、あるいは自家用車という閉鎖された空間に閉じこもり、エアコンで室内温度を調節し、ボタンの遠隔操作で様々な機械を思い通りに操っています。「この世の主宰者」という幻覚をもってしまいがちな日々でありましょう。それを「快適」というなら、そのような意味の快適さを求めてきたのが私たちの近代であると言えるでしょう。

けれど本来的に私たちは縁起的存在であって、他の存在と無関係ではあり得ないのです。私たちが快楽を得ている反面で、まさに死地の苦しみを強いられている人々がいる。そのことに思いをいたすとき、今日私たちが享受している快楽(快適さ)の功罪を考えざるを得ないのではないでしょうか。

人間の思慮・分別に従えば、自分用に切り取った生活空間の中での快適さが「幸せ」ということになります。しかしその中にいるとイラクやチェチェンの人々の苦痛や悲しみには無縁・無関心になります。そのような無関心は、ある意味で人としての死と同じなのではないかと思います。だからそこに「自分たちの在り方に目を覚ませよ」という呼びかけが必要になります。それが「南無阿弥陀仏」に込められた願いなのでしょう。

〜今生に、いかに、いとおし不便(ふびん)とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々(歎異抄第四章)〜

世界各地で起きている紛争やテロリズムを、自分一人の力でなんとかしようとしてもできるものではありません。その意味では私たち一人一人は無力です。しかし、その紛争のどれもが自分と無関係ではないのだと目覚める人が多く出れば、事態は変わっていくでしょう。そのような呼びかけが「ナムアミダブツ」と称えることの中にあるのです。

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