〜赤本(聖典)と白本(新聞)の間で〜




2003年9月3日

娑婆のことしか知らない者は、娑婆のことが分からない

 昨年の11月、非常勤講師を勤めていた高校からの依頼で、カナダからの交換留学生を短期間我が家にステイさせることになった。多少の不安はあったが、以前からホストファミリーというやつをやってみたかったので、楽しみでもあった。
 あらかじめ我が家に来る生徒の資料を見せてもらったところ、なんと身長が186センチ、体重が90キロ近く。私よりも2回りは大きい。こんな大きな生徒をどうやって寝かせたらよいのか、まず布団のことを心配しなければならなかった。

 あっという間に対面の日がやってきて、高校でその生徒(レイナード君)と顔を合わせたが、素朴な感じの大人しそうな高校生だった。初対面の挨拶を済ませると、すぐに家に連れていってやってくれということなので、クルマに乗せて我が家までドライブということになった。

 少し話をしてみて分かったことだが、レイナード君は日本語がほとんど理解できなかった。べつに驚くにも当たらないので、こちらの怪しげな英語を頼りにいささかのことを聞いてみた。「日本の食べ物は食べられるか」「どんな日本語を知っているか」「日本にいる間は何をするのか」。もちろん私の英語だって彼の日本語に毛の生えたようなものだから、あまりややこしい話は出来ない。「とても上手な英語だ」とレイナード君は言ってくれたが、多分ホストファーザー(私のこと)に気を遣っていたのだろう。

 家に着いて家族を紹介し、彼も自己紹介をしたあとは、疲れているようなので風呂に入って休んでもらうことにした。風呂場に案内し、これがシャワー(見れば分かる)、これがシャンプー、これがソープ、バスタオルはこれ、入り終わったらさっきの部屋にいるから声をかけてね、と言って、居間へ戻った。3〜40分ほどしたらバスタオルで頭をごしごし拭きながら戸を開けて、「サンキュー、グッナイッ」と言って部屋へ向かった。

 やれやれ、それじゃあこちらも入らせてもらおうかと風呂場へ行ってみて、びっくり。湯船のお湯が綺麗に抜いてあった。「ありゃりゃ、もったいない」と思いつつ、「やっぱり外国の人と暮らすときは、こういうハプニングがつきものなんだなあ」と、思わずニヤリとしてしまった。次の日高校へ行って、英語の先生に「『お風呂のお湯は流さないで下さい』って英語でどういえばいいんですか」、と聞かねばならなかった。

 そんなことがあってふと思った。我々日本人の生活の仕方って、外国の人から見たら色々と不思議というか、けったいに思われる所があるのだろう。いまの、風呂の入り方についていえば、せいぜいが大人と子供が入ればいっぱいになってしまうくらいの浴槽のお湯を、入れ替わり立ち替わり4〜5人の人間が使う。手桶で汲んだ分の足し湯はしても、基本的には同じお湯に何人もの人間がつかるのである。お湯の中では汗もかけば表面の垢もじわりじわりと溶け出していることだろう。おならをすることだってある。そういうお湯で顔を洗ったり、口に含んだりもするのだ。案外それは、不潔ったらしいことかもしれない。

 でも私達日本人は昔からそういうやり方で内風呂を使ってきた。そういう風呂の入り方が当たり前であり、疑問に思うこともない。異国の人の生活習慣に触れて、改めて自分たちの生活の仕方が少々変わっている(我々から見れば向こうが変わっているのだが)ことを教えられるのである。

 異質な世界に触れることによって、改めて自分たちの世界の特徴を知ることが出来る。これは異質な世界によって「教えられる」のであり、教えられる内容については、自分自身の中からは出て来ようがない。「そんなこととは思いもしなかった」という表現が当たるだろう。

 曇鸞大師に「ケイコ春秋を識(し)らず。伊虫あに朱陽の節を識らんや」という言葉がある。ケイコというのはセミのことである(漢字が変換できませんでした)。「セミは春や秋を知らない(地表に出てくるのは夏の間だけだから)。この虫は朱陽の節(=夏)を知っていると言えるだろうか(いや、言えない)」という意味である。
 夏というのは、春や秋や冬があってはじめて存在するものである。一年中同じ気温と湿度と風景の地域に住んでいたら、そもそも季節という概念は発生しないであろう。夏しか体験したことのないセミは、それが夏という季節であるということすら分からないのである(秋に鳴くヒグラシは?などというツッコミはナシにして下さい)。

 娑婆しか知らないものは、娑婆がどんな世界かすら分からない。けれど、娑婆以外の世界を教えられてみると、そこ(娑婆)が思いもかけず奇妙な所であることが見えてくるのです。奇妙というか、理不尽というか、歪んでいるというか。小松の言葉では「あてげ」とか「うさん」と言いますが。
 この、娑婆を娑婆(サーハ=堪え忍ぶ世界)として照らし出すのは、娑婆とは全く異質な世界である「阿弥陀の浄土」の働きです。阿弥陀の浄土を私達にお説き下さった存在こそが如来と呼ばれるのです。

(久しぶりに再開しましたが、しばらくはこの路線で書いていこうと思っています。)

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