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2002年1月5日
(ずいぶんと久しぶりに書きました。)
他国坊主と国大名
他国坊主と国大名(あるいは国侍)という言葉がある。坊さんと侍というのは人の上に立ってものを言う者の代名詞なのであるが、その権威が通用するのは、坊さんの場合はよそから来た人に限り、侍の場合は自分の領国にいる場合に限る、という意味の言葉である。坊主も自分の生まれ育った土地ではあまり偉そうなことは言えず、侍は他国へ行けばたいして畏まって扱ってもらえないと言うことになる。
対面する側から言えば、坊さんというのはいろいろ有り難い人生の道を説いてくれるはずの人だから、どこか浮き世離れした、崇高な人格者であることを期待する。侍というのはいちおう自分達の統治者だから言うことを聞いておかなければいけない、と考えるのだろう。
特に坊さんについて言えば、日頃の自分達のあり方に釘を刺してくれたり、欲呆けの暮らしをしていることをいさめたりする人、よく勉強して有り難い教えを聞かせてくれる、その人自体が有り難い人、というイメージで捉えられているだろう。しかし実際問題として、坊さんもこの娑婆を生きている人間に違いはないのだから、そうそう期待に応えられる崇高な人格者であり続けるということは難しい。かすみ喰って生きていられるわけでもないから、銭のことも気になるし、美味いもんも喰いたいし、異性に対する興味や欲望も人に負けずにある。
小さいころからを知られていれば、やんちゃこいているところも見られているだろうし、みんなでいっしょに悪さをしたことも知られているし、「ああ、あそこのお寺のボクか、大きくなったなあ」という目では見られても、「あの人の言うことなら聞かんならんかなあ」とはなかなかならない。「なんや、エラそうなこと言うとっても、昔はただのガキやった」くらいのものだし、日頃の生活を見られていれば、「御清潔なこと言うてるけれど、実際のあの人の生活はなんや・・・口ばっかりやないか」ということになる。だから素性の知られていない「他国坊主」しか説得力を持たないということになるのであろう。
しかしこういうのは宗教と道徳が混同されているところから来るのだろう。つまり、坊さんの言っていることは素晴らしいことなんだけど、「理想」とか「きれい事」としてしか受け取られていないということである。だから日頃娑婆にどっぷり浸って生きているような姿が見え見えの人の言うことは、あまり有り難がられないことになる。そういう枠組みの中にいる間は、人前で説教なんて、こっ恥ずかしくて出来たものではないし、決して聞いている人の心に何かを語りかけることもできないだろう。しゃべっている人間が自分の言葉に酔うことはあっても、聞いている方は現実の生活の中で「そんな風に行くわきゃネエだろが」と冷ややかに聞いているに違いない。
けれど、「念仏申せ」と教える精神はきれい事ではないはずだ。決して「世の中をよくしよう」とか「善人になろう」とか「みんな仲良くしましょう」などとか、そんなことを言っているのではない。人はだれもが、それぞれに背負わされた宿業と、出会った縁によって、どこへ転がるかもしれない「機」と呼ばれる存在である。そうそう道徳の教科書に書かれているような理想の通りに生きていられるわけではない。おのずと「悪人」も生まれてこざるをえない。そういった人間の一切を包み込もうとする教えは、きれい事や理想論では力がなさすぎる。
理想を押しつけるのではなくて、だれもがうなずかざるを得ない強さを持った言葉に、まず自分自身が出遇う。この言葉に関しては自分は嘘を言っていない、と言える言葉との出遇い。それがなければ始まらない。それからもう一つ大切なことは、自分自身が自分に嘘をつかないで生きていることだろう。自分に嘘をつかないで生きようとすると、多かれ少なかれ周囲とぶつかることになる。「悪人」を自覚せざるを得ない。その自分を救ってくれた言葉を語ればいいのだ。
どうも頭のいい人間は、言葉が先に走ってしまって、「この身が全身でうなずかざるを得ない」などという体験をしないままにものを語ってしまう。だからきれい事になるんだろう。
あんまりお行儀のいい人も、坊主には向かないようだ。べつに無理してお行儀悪くする必要もないが、自分が日頃接している人達と同じ世界を体験しつつ生きられる坊主になっていればいいんじゃないだろうか。思えば蓮如さんはすごい名前をお持ちだった。蓮の如くに、泥の中で咲く、と。