〜赤本(聖典)と白本(新聞)の間で〜




2001年9月2日

なぜ真宗は限られた人のものになってしまっているのか

東京真宗会館<サンガネット>の掲示板で「OKじじい」さんから受け取った問題を論じ合おうとしたら、「もう顔を出さない」というコメントを残して去っておられました。せっかく原稿を用意したのに空振りという形になってしまったもんで、とりあえずここに貼り付けさせてもらいます。文中の<釋光圓>は私のことです。サンガネット上では私のハンドルネームになっておりましたが、ここでは私の法名に変えました。

<OKじじいさん  8月29日>

>真宗というのは、というよりも宗教というのは、何か特別な体験がないと分からない世界なんかのう?
>全国の僧侶達よ、答えてくれ。

<釈光圓 8月29日>

そんなことはないと思います。教えとの出遇いには様々な縁があって、「愛する
者を失った」ということもその一つでしょうし、中村久子さんのように両手両足
を幼くして失った、というのもそんなご縁でしょう。でもそれらはあくまでも一
つの縁であって、必ずしも特別な体験が必要というわけではないと思います。

特定の体験を通してしか出遇えないのなら、それはやはり限られた人のもので
しかないんじゃないでしょうか。

OKじじいさんはどのように思われての問題提起だったのですか?

<OKじじいさん 8月29日>

>ふむ  確かに
>しかし、実際には限られた人のものになっている現実がある。
>そのことを、どう受け止めるか。
>そのことを抜きにしては、奇麗事にしかならん気がするんじゃよ。

<釋光圓 昨日書き込み予定だったレス>

私は上の発言を読んで、「OKじじいさんは今日の真宗教団のありさまに問題を感じ、それを批判するだけではなくて共に背負って下さろうとしている」と感じました。

本来はすべての人に開かれた教えであるはずのものが、現実として限られた人にしか求められていない。その理由を考えようじゃありませんか。

たしかに今日では真宗(あるいは広く宗教)との出遇いに、何か特別な体験が必要であるかのようになっています。その理由は、私たちが今日という時代の精神を知らず知らずのうちに受け入れ、その尺度の中で生きるようになってしまっていることにあるんじゃないかと思います。それを「西洋的近代」というふうに言う場合もあるようですが。

今日的な時代の精神というのは、「同じ場所にとどまっていてはいけない、進歩、前進、向上、進化、それが人間の生活に快楽をもたらすのだ」・・・そんなところでしょうか。そしてその中で、「死」という、我々にとって最も深刻な現実を覆い隠し、あたかも技術の進歩によって永遠に生きていけるかのごとき幻想も生み出してきています(臓器移植、クローン)。

しかし、私たちの生きている現実は、いかに覆い隠されても中味は変わっていないので、愛別離苦の悲しみや、怨憎会苦の苦しみなどにも苛まれるわけでしょう。その時はじめて私たちは「近代」の幻想と現実のこの身のギャップに出遇い、「これはどういうことなのだ・・・」と、教えを求め始めるのではないでしょうか。

他の宗教、宗派はいざ知らず、真宗はどうしても今日的な時代のあり方に「?」を突きつけざるを得ない教えです。そこに「一部の限られた人のものになっている理由」を私は見ています。真宗を弘めるということは、たんに一つの宗教を弘めるということにとどまらず、今の時代を覆っている西洋的「近代」の精神全体に批判の視線を向けることになっていきます。今の時代社会の中で安寧を得ようとしている人達にとっては、迷惑な話だろうと思いますよ。

私は、一部の限られた人のものになっている理由の中に、真宗の真骨頂を見ているのです。真宗の寺の僧侶の怠慢はあるにせよ、社会全体の問題として上のようなことを考えました。


目次へ戻る