〜赤本(聖典)と白本(新聞)の間で〜




2001年9月1日

遇(お)うだけのことには遇(お)わんなん

人気男性ユニット「スマップ」のメンバー稲垣吾郎が、駐車違反とそのあとのトラブルで警察のお世話になった。事件のことはまあ受けるべき処分を受けてることになるだろうから警察の方にお任せするが、一つ残念なことは彼と杉本哲太が主演したNHKのドラマ『陰陽師(おんみょうじ)』の再放送が中止されそうなことだ。このドラマに出てくる本上まなみさんが、私は結構好きなのだが。

『陰陽師』の主人公は歴史上随一と言われる陰陽師、安倍晴明を主人公とする物語である。陰陽師というのは中国で生まれた「陰陽五行説」によってこの世の成り立ちの一切を説明し、身の回りの現象を動かそうとする術師のことで、安倍晴明は特にその術に優れていたとされる人物である。幼い頃から並外れた才能を発揮し、修行を積んだ術師しか見ることが出来ない魑魅魍魎を容易に見ることが出来たという。

しばらく前にこの安倍晴明ブームがあった。NHKドラマの原作となった、夢枕貘の小説「陰陽師」が岡野玲子の絵によって漫画化され、それがヒットしたという背景があるのだろう。近いうちに、狂言師の野村萬斎が主演して映画化されるという。稲垣吾郎には悪いが、漫画の陰陽師のイメージには、野村萬斎の方がぴったりである。

で、しばらく前にこれまたブームを背景にして日本テレビの「知ってるつもり」で安倍晴明が取り上げられていた。その中で漫画の絵を描いている岡野玲子さんがこんな事を言っていた。「不透明な時代にあって、現代人は何らかの形で自分自身を説明してもらいたいという欲求を持っているんじゃないでしょうか」。この文言の通りではなかったと思うが、私はそのような意味に受け取った。今の自分のありさまを、何らかの説明によって「ああ、だから自分はいまこうなのか」と納得したいという欲求があるのだろうと、私はその時ひらめいた。

誰しも、いま現在の自分のありさまに100パーセント納得できているわけではない。「おかしいなあ」「なんでこんな目に遭わなければならないのだろう」と、多かれ少なかれ思っているはずである。その底には「本当ならもっとよい具合に生きていられる自分のはずなのに」という思いがあるのであろう。安倍晴明ならその疑問に応えてくれそうな感じがするから、ブームになっていたのではないだろうか。

例えば安倍晴明は、頭痛に苦しむ天皇に向かって、「あなたは前世で修行者だった。その修行の功徳によって今生では天皇に生まれたのであるが、実は前世のあなたの頭蓋骨が岩と岩の間に挟まっている。それを取り出してちゃんとした場所に埋め直せば、あなたの頭痛はなくなる」と言ったという。天皇の命を受けた者が安倍晴明の指摘した場所へ行くと、果たして岩と岩の間に頭蓋骨が挟まっており、それをきちんと埋葬したら天皇の頭痛は嘘のようになくなったという。

その他にも、陰陽道は日の良し悪しや方角の吉凶、この世を支配する様々な神仏の存在を前提としている。いずれにせよ、この世を支配する様々な因縁を解き明かし、それに働きかけることで自分の思うようにこの世を動かすことが出来るように、『陰陽師』には書かれている。

その名残は私達の生活の中にも色々根深く残っているではないか。陰陽道に限らず、私たちに日の良し悪しや方角の吉凶を細かく教えるものがある。墓の向きがどうだとか、玄関の向きがどうだとか、結婚式は大安が縁起がよいとか、葬式は友引を外せとか、名前の画数がどうだとか、数え上げればいくらでも出てきそうである。私たちは何かというとこのようなことを気にさせられている。

ところで、真宗門徒について昔からこんな言葉が言われてきた。「門徒ものしらず」。文字通り、門徒はものを知らない、という意味である。ただ、この場合何を知らないからと揶揄されているのかが問題である。例えば「どうすれば景気がよくなるか」とか「現在のアメリカ大統領は第何代か」などということを知っているとか知らないとかいうことではない。

門徒は、他の宗教の信者なら誰もが気にして怖れていた、「日の良し悪し」「方角の吉凶」に代表されるいわれやしきたりを、特に怖れるようなことがなかったということなのである。他の宗派の人達から見れば、「あいつらはいったい何を考えているのだ。汚ならしいまでにいい加減としか言いようがない」ぐらいのことは感じていただろう。蓮如さんの御文にもそんな記述が出ている(第一帖第九通)

しかし門徒はそんなことには一切お構いなしであった。「阿弥陀さんさえ信じておれば、他の神さんやら仏さんやら、鬼さんでも、なあんも怖いことはない」と、平気の平左であったようである。

考えてみれば、なぜ私たちは日の良し悪し、方角の吉凶を気にするのであろうか。「気にしてはならない」と言われても、気になってしまうのが正直なところである。なぜか。私が思うに、我々のひぐらしのいちばん元にあるのは、「嫌な目には遭いたくない、ウマい目にばかりあっていたい」という心情、つまり「除災招福を願う心」ではないか。そこから日の良し悪しや方角の吉凶に縛られる心が出てくるのであろう。

親鸞や蓮如は、そのような除災招福を願う心から解放されなければならないと言っている。「自分を苦しめるようなものからは遠ざけてもらいたい、幸せにしてくれそうなものとは近しくさせていただきたい」という心情が欲する宗教、実はそのような宗教が人間の自立を疎外しているのである。除災招福の心に応えるような宗教を宗教と呼ぶなら、浄土真宗は宗教ではないと言ってもよいくらいである。

陰陽師や、占い師、そして怪しげな宗教の教祖というのは私たちの除災招福を願う心情に上手く入り込み、あたかも我々の運命を狂わせている要素を見抜くことができるように振る舞い、我々を上手く誘導して、大金を巻き上げたりしているのであろう。大金を巻き上げるだけではなく、我々を彼らの精神的奴隷にしてしまうのである。

しかし考えてみたらどうだろう。私たちのいまのありようというのは、ちょっとやそっとでは想像もつかないほど広く深い出来事の複雑な絡み合いの中から生まれてきているものである。それこそいまに始まるものではなく、私なら私が生まれるはるか以前からの様々な出来事が縦横無尽に絡み合って、今日の私がいる。それを、たかだか日常の出来事一つを右へやったり左へやったりするだけで、私のありようが根本から変わったりするものだろうか。

墓の向きを変えたぐらいのことで、私の「運勢」が好転したりしなかったり、するものだろうか。そもそもその「運勢」とはなんだ。佛壇の向きをやたら気にしているオバハンが近所にいたから言ってやった。「問題は佛壇の向きじゃない。あんたがどこに向いて手を合わせとるか、でしょうが」。

日の良し悪しや方角の吉凶を「気にしてはいけない」ということではないだろう。気にしても始まらない、だから気にする必要もないのである。どうせ良いこともあれば、悪いことにも遭わねばならないのだ。それが私が生きているということではないか。

加賀の門徒が言い伝えてきた言葉がある。「遇(お)うだけの目には、遇(お)わんならんがや」(自分が遇わねばならないことには、遇わねばならないのだ)。これは疑う余地もなく、私たちの生きている姿そのままを言い当てた言葉ではないだろうか。まことに、遇うだけの目には、遇わねばならない私たちである。それを、嫌な目には遭いたくない、ウマい目にばかりあっていたい、と思っていたりするのが私たちである。あるいは「いまの私は、何か間違ったことになっているのであって、本当の私はもっとよい具合に生きていられるはずなのよ」とあらぬ希望を抱いたりしている。

どんな目に遭わなければならないかは、人それぞれである。案外何ごともなくラク〜に過ごしていける人もいるかもしれないし、「よくもまああれだけしんどいことが続いておられるなあ」と見られる人もあるだろう。しかし、あくまでもそんなことは人それぞれであって、背負わされているものが人それぞれなのである。それを「宿業」というのではないか。よい目に遭うのも、嫌な目に遭うのも、それはそれでその人の宿業である。予見できるわけのものではないが、逃げることなどできないと思うしかない。

門徒というのは、その宿業を「我が事」として受け入れることが出来ていたのだろう。どんな目にあっても不思議なものではない、というところに腹がくくれていたのだろう。だから、日の良し悪しや方角の吉凶など、気にもしなかったのだろう。それはそれで、支配者達からは面倒な存在だったのではないだろうか。

自分の身の上に起こることは我が事として背負うしかない、それを教えてくれているのが「ナムアミダブツ」ではないか。どこか外に都合のいい別の自分がいる、という淡い期待を抱いている限りは、いまの自分を生きていこうなどとは思わないだろう。そしていつまでたっても自分の人生が始まらないのだ。

余の諸天神に帰依せざれ、という宗祖の言葉は、私たちに自立の契機を教えている。遇うだけの目には遇わんならんがや。それが私が生きているということではないか。頑張りましょう、お互いに。

目次へ戻る