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2001年3月18日
石仏破壊・家電リサイクル法
その1 石仏の破壊
イスラム原理主義組織のタリバーンがバーミヤンの巨大石仏を木っ端微塵に破壊したという。アメリカを中心とする西側諸国の経済封鎖に対しての反抗的行動と考えられるが、周辺のイスラム諸国も賛同しかねる暴挙であり、国連(ユネスコ)としても世界史上貴重な文化遺産を破壊されたわけで、「呆れたバカ共だ」というしかあるまい。
偶像崇拝を禁止するイスラムの教義から、既に顔の部分ははるか昔に削り取られてはいたが、それもそれなりに宗教勢力のせめぎ合いを物語る遺跡であったと言えるだろう。まったくもう、理性的に判断すれば、石仏を破壊する宗教的理由など今日には全然ないではないか。貴重な観光資源になりこそすれ、破壊してしまっては、それをタネ(人質)にいろいろな交渉をすることもできなくなる。駄々っ子というか、「イカれた連中」と見られるのが関の山だ。
平山郁夫画伯がいちはやく破壊阻止の署名と募金を呼びかけていたが、石仏は残念な結果に終わってしまった。石仏だけではなく、寺院窟、さらにはその中に描かれた極彩色の壁画も失われてしまった可能性が高い。ひょっとして、精密な技術で元通りの姿を現すかも知れないが、いまは彼の地の政治状況が落ち着くのを待つしかあるまい。
しかし、形あるものは必ず滅びる、とは仏教の根本教義であるから、今回のことも石仏自身が仏教を明らかにしてくれたと思うしかないだろう。仏教のいかなる宗派が彼の石仏を崇拝していたかは分からないが、なに、きれいな画像はいくらでも残っているし、実際に現地で拝むような旅行も出来そうにない身分としては、特に実質的に痛手を蒙ったということもないのが正直なところだ。
まあ、大多数の日本人にとって、仏像は鑑賞の対象であり、文化遺産という意味の価値しか認めてはいないだろう。だが本来、仏像とはなにかと言えば、「仏陀あり」ということを顕わす「しるし」である。なんのために史上これほどたくさんの仏像が作られてきたかといえば他でもない、仏陀あり、ということを顕わさんが為である。
由緒ある、貴重な仏像が破壊されてしまったことは誠に残念だが、私達にはいかなる暴挙にも破壊されることのない「しるし」がある。「南無阿弥陀仏」の六字の名号がそれである。べつに親鸞聖人が書いたから、蓮如上人が書いたから、尊いというものではない。誰が書いたものでも、どんな紙に書いてどんな表装をしてあるとしても、顕わすものがらは全く同じ、「ここに佛あり」ということである。
その2 家電リサイクル法
4月1日から家電リサイクル法が施行され、大型家電(テレビ、エアコン、洗濯機、冷蔵庫)は有償で家電メーカーに引き取って貰わなければならなくなった。今はまだその施行前であるが、大型家電店のチラシには「リサイクル法施行前がお買い得!」などとうたわれている。そんな店では絶対に買わない。
売る側だけかと思いきや、買う方も有償の引き取りが義務化される前に買って、古い物は捨ててしまおうとしているらしく、粗大ゴミ捨て場(処分場)への運び込みが急増している。売る方も、買う方も、なにを考えているのか分からない。バカじゃねえの?
20西紀の終わりから、「ゴミ問題」が新西紀の社会的大問題になるということは周知の事実ではないのか。私は消費者の大部分はそのことを充分にわきまえており、ゴミ問題の解消にいたらずとも、緩和のためには多少のコストを払うことに納得しているものだと信じていた。ところが、なんだ、このザマは。
テレビの処理費は3千円そこそこ。その経費を負担すれば、自分にとって不要となったテレビが処分場で野ざらしになる代わりに、素材毎にリサイクルされるというのだ。3千円といえば、最近のテレビ代の消費税分にもなるかならないかだろう。なぜそのコストを負担しようと思わないのだろう。呆れた。もう一度書く。バカ。
一体いつまで、使いたい放題、棄てたい放題の暮らしが続けられると思っているのだ。
私の住む寺井町の隣町、辰口町の山間部に、不燃物や粗大ゴミの処分場がある。以前古くなった布団をそこへ持ち込んだとき、処分場となっている谷間の風景に愕然としたことを思い出す。なんと荒涼とした風景だったことか。切り開かれた谷間の底の方に捨てられた多量のゴミ達。一部には火を放たれくすぶっていた。あのような殺伐とした風景は、見るだに悲しかった。
やっぱり、日本は滅びるかもしれない。いまのところ、希望は見えない。国会議員も訳の分からない論理を押し通すから、次代を担う若者達に示すべき規範がない。
本年は末法暦1640年である。