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2001年2月12日
神通を得ずば、正覚をとらじ
幼児・児童の虐待がマスコミで報道されている。致死事件もざら、という印象がある。死に至ったり、深い心の傷を負ったりする前に子供を保護できるような環境を整えて欲しいと願う。
一方、児童を虐待する親(加虐の親)も、病んでいる。子育ては、誰にとっても楽しいことばかりではないが、虐待したり死に至らしめてしまうのは、やはり異常な事態であろう。手出しの出来ない小さな子供に過酷な暴力的行為を加えるというのは、加虐の親の心の病の深さを思わせられる。
実は私も、加虐衝動に囚われたことがある。だから、加虐の親の陥った状況が多少は理解できる。心の中にたまったガスが、時々吹き出してしまうのだ。だからそのガスが子供の虐待という形になる前に、別の形で吹き出させてやるしかないのだろう。その加減というか、案配というか、そういうことに通じた人が近くにいれば、それは本当にありがたいことである。
話はがらりと変わるが、先日ある人から質問を受けた。「知人で、家族に目の不自由な人と耳の不自由な人とを抱えた人がいるんですけど、そんな人達も、お念仏で救われるのですか」ということだった。「もちろん、救われますよ」と答えたのだが、その人は「でも、お念仏しても、目は見えないままだし、耳も聞こえないままですよね。それで救われたと言えるんですか」と重ねて問われた。ごもっともな質問だった。
それで、逆にこちらから質問してみた。「目の見えない人は、目が見えるようにならなければ救われないのですか。耳の聞こえない人は、耳が聞こえるようにならなければ救われないのですか」。私に質問された方は分かったような分からないような顔をしておられたが、その後も考え続けて下さっていることと思う。
私の考えだけれど、身体が不自由というだけではべつに「障害者」ではない。「障害者」という言葉には私達健常者の側の差別的なイメージがくっついている。曰く、「我々とは同じように出来ない人」「人の世話にならなければ生きていけない人」。健常者のこのような意識が、心身に不自由のある人を苦しめているのではないか。
それともう一つ。目の見えない人が、そのために不便な思いをしたり、不幸になったりしてしまうことがあるとすれば、それは目の見える側の人間の責任である。目の見えない人の不便は、目の見える者が解消するべきなのではないか。他の障害についても同じ様なことが言える。
ただ、これは思うほどに簡単ではない。私は目が見える側の人間であるが、目が見えてしまう故に、目の不自由な人の不便さがなかなか分かりづらい。どう介助すればいいのか、今何が不便なのか、それがなかなか感じ取れないという歯がゆさがある。耳の不自由な人に対しても同じである。そこに通じ合えないもどかしさがある。
法蔵菩薩の四十八願の中に、「神通」というのがある。極楽浄土に生まれた衆生に持たせたいと願われた不思議な力である。宿命通、天眼通、天耳通、他心通、神足通の五神通が挙げられている。宿命通とは、「なぜこうなったのか」ということが分かるということであり、天眼、天耳は何でも見える、何でも聞こえるということであり、他心は他者の心が分かるということであり、神足とはどこへでも身を運ぶということである。
私達の目は、結構なんでも見ることが出来る。しかし、目の不自由な人がどれほど不便な思いをしているかを「見る」ことはできない。声になった言葉を聞いてはいても、その奥の心のささやき、あるいは叫びまでを聞き取ることが出来ない。ましてや声にならない声を聞くことは出来ない。他者の心も、なかなか分かることが出来ない。
だからこそ法蔵はこれらの神通を持たせたいと願ったのであろう。神通の通は、お互いに「通じ合う」事につながっている文字ではないだろうか。だから、身体の故障が「障害」なのではなくて、通じる事の出来ない人間同士のありようが障害なのである。
今私達は、浄土の教えから、「通」じ合うべき事を教えられた。悲しいかな、娑婆にあっては神通は夢のまた夢であるが、そこに一歩でも近付くために、学問や、いろいろな努力があるのであろう。例えば他心通との関連で言えば、心理学とは人の心を操るためにあるのではなく、少しでも通じ合える助けとなるためにあるもののはずである。目の不自由な人の不便さを実際に学んでみるということも、目の見える人間の大事な課題である。
子供を虐待してしまう親が、なにに行き詰まっているのか、そこに通じることができるなら、この不幸も減っていくのではないだろうか。
もちろん100パーセント通じ合えるということはないだろう。100パーセントどころか、10パーセントもむずかしいかもしれない。でもお互いのパイプを少しでも広げていかなければならないという課題を共有できることが、救われていくということに近いんじゃないだろうか。