〜赤本(聖典)と白本(新聞)の間で〜




00/10/14

「便利だから利用する、は間違いだ」

 先日、町内のとあるお宅のお弔いに出遭った。以前お参りに行っていたお宅のお婆ちゃんが亡くなったのだ。普通、町内の人が亡くなったときのお葬式は、私のいる寺かもう一つのお寺で葬儀を行ってきた。葬儀の準備から、その準備にかかる人の食事の炊き出しから、何かとご近所同士で助け合って葬儀を出してきた。それが今回は一切を葬祭業者に預け、町内からクルマで30分弱離れた、いわゆる「セレモニーホール」での葬儀となった。

 まあ、至れり尽くせりに近い、親族の人にとっては楽チンなお弔いであっただろう。あれやこれやの心配事も、ほとんどは業者が持つノウハウで片づいていく。まさに「お客様」感覚で葬儀を終えることが出来たであろう。

 だがしかし、私はこのような葬儀が一般的になることをよいことだとは思わない。何でもかんでも、専門家に任せればよいというものではない。

 まずその第一の理由は、「楽に故人を見送ろう」とする魂胆が間違いなのだ 。人が死んだのだ。みんなが上や下への大騒ぎをして然るべき事態ではないか。いちばん近しかった人は、自身の責任としてそのお弔いを背負わねばなるまい。それをお客様気分で業者任せにするのは、大袈裟な言い方をすれば、自分の人生を人に生きてもらうことと変わりがない。

 第二の理由は、業者の用意するセレモニーとその舞台が、必ずしも各宗の宗旨に則ったものとは言えないからである。だいたいが、派手派手しい祭壇は何宗のものなのだ。あんな電飾満載の巨大な白木の舞台は、少なくとも真宗のものではない。ああいったものは業者の都合で作られるもので、他に妥当な存在理由な どない。真宗本来の葬儀については こちらをご参照 願いたい。

 第一、第二の理由も含めて、第三の理由であるが、今日の経営感覚に流されたままになると、私達が自分のいのちの事実を見失ってしまうことになる。いかに厳粛な演出がなされていようとも、今日の葬儀でいちばん欠けてしまっているのが、「○○さんが亡くなった。そしていつかはこの自分も死ぬのだ。」という事実ではないだろうか。そしてうわべだけ派手派手しく飾り立てた祭壇が目の前 にあれば、出てくるのは「これだけしてやれば故人も満足だろう」という訳の分からない理屈である。

 「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり(清沢満之)」。死を背景にして生が輝く。それは闇を背景に光が輝くことと同じである。葬儀の最も大切な意義は、我等の生の背景にある死をしっかり意識することではないか。

 私達は死の意識を遠ざけようとする。だから葬儀もうわべを飾った小綺麗な舞台でやりたいと思う。そういった我々の意識に入り込み、さらに我々の意識を死から遠ざけようとする舞台を演出する葬祭業者。

 だまされてはいけない。よい葬祭業者とは、「こんなくらいなら自分で仕切った方がましだ」と思わせるほど遺族をしんどい目にあわせ、親族の死の事実をまざまざと我々の目の前に突きつける演出をしてくれる業者のことである。

 だいたいが、葬祭業者が喪主に示す僧侶へのお布施の額は、なんだありゃ。どんなお参り事も一律○○円?違うだろ!葬儀のお布施が花輪代と変わらない?違うだろ!僧侶を単なる舞台装置と思ってんなよ。

目次へ戻る