〜赤本(聖典)と白本(新聞)の間で〜




00/09/17

 その1 「神棚がない?」

 今年私は「初老」という歳になった。世間では厄とか前厄とかいう時期に当 たる。この歳になると私達の地域では(多分全国的に似たり寄ったりだと思うが )同年の者が神社に記念の品を奉納し、お祓いを受け、御輿を担ぎ、親戚や近所 に餅を配る。親戚縁者を招待して初老の披露に一席設けるということもよく聞く 。

 ただし、私はしない。神社への記念品の奉納は同年会の頭割り分は負担させ てもらったが、最初から個人名は出さないということだったのでそのあたりの配 慮に関して、幹事に感謝している。それ以外のお祓いだとか餅配りというものも 、宴会というものも、私はしない。

 初老の披露については、成人式とは別の意味で、壮年社会への仲間入りと言 った意味もあり、必ずしも神事と結びつける必要はないと思うが、それ以外の、 お祓いや御輿は、はっきりとした神事である。

 この国では神事は習俗ということになっていて、宗教的活動ではないと理解 されているようだが、私にしてみれば神事は宗教的活動であり、神事を挙行する こと自体が神道の布教活動であり、それに参加を強制することは憲法違反の疑い がある、とすら思っている。

 まあべつに、いまのところ、町内の神事への参加が強制されているわけでも ないし、この件に関しては、そのうち何か言うかもしれないけれど、当分は何も 言うつもりはない。それと、「神事は各地域の無形文化財である」という発想も 私にはあって、自由参加で文化財保護をうたうのならば、それは結構なことだと 思う。はっきり意識して、神事は神事であるというけじめを付けておけばいいの である。

 それより、こういったことについて雑談めいたことをしていると必ず聞かれ るのが、「じゃあお寺さんには神棚はないのですか」というセリフである。当た り前じゃないか、と思う一方で、それが当たり前じゃない感覚が日本人なんだろ うな、と思うのである。そこのあたりはこのページの前々回分コラム 「この国民ありてこの宰相あり」 を御覧いただきたい。

 べつに神棚を持っている人を非難するつもりもないし、神道を否定するつも りもない。言いたいことは、「佛教の立場からすれば、神道と佛教は相容れない 」ということである。たとえ神道の側が「神道と仏教は教義の上で並立できる」 と言ったとしても、それは神道の言い分であって、佛教はそんな立場を取らない 。

 地域内で真宗寺院と神社が共存することは可能であっても、一個人の中で、 特に真宗門徒の中で、神道が共存することは不可能である。だから、神道と仏教 が、具体的には仏壇と神棚が、同時に存在し得るのは、その人が神道の信者であ る場合にのみ、可能である。

 誰だって、厄なんぞというものは御免蒙りたい。それは私も同じである。け れど、神社でお祓いを受けたからといって厄が払い落とされるとは思えないし、 「お祓い」という発想の根底には「ケガレ」の思想があり、その延長上に例えば 「差別」ということも起こっている。「他人の苦しみも総てわたしが背負わねば 」という発想が、阿弥陀の本願ではなかったか。

 生と死の問題、そして人と人との出遇いの問題についての根っこを押さえた 教えが「南無阿弥陀仏」である。蓮如上人は、あらゆる神仏の功徳がすべてこの 六文字に込められていると言われる。つまりそれは、この六文字以外は何も必要 ないとおっしゃっておられるのだ。


 その2 人は野垂れ死にすらできない

 先日、いささか事情のある方のご葬儀に関わった。家族への消息を絶ち、十数年所在不明を通していた方だったが、末期の癌に犯されてようよう兄弟に病院 から連絡があったという。

 「本人は、誰にも知られんように、野垂れ死にするつもりやったのかもしれ ん」とは、葬儀の段取りなどを御相談に来られたご親戚の方の言葉である。事業 に失敗したのか、金銭的にも恵まれず、もちろん身の回り品以外の遺産と呼べる ような物もなかったのであろう。入院費用や葬儀の経費などは、故人にいささかの恩義を感じる親戚の方が負担することになったようだ。ご葬儀は当院で野卓だけの形で行った。

 犬やら猫なら、野垂れ死にということもあり得るだろう。しかし人間は、た とえ行きだおれて死んでしまったとしても、そのあとを放っておけるものではな い。死亡診断をし、検屍をし、死因を確認し、家族遺族を捜し、弔いを出し、・ ・・ということをしなければならないことになっている。本人が望むと望まざる とに関わらず、後に残された者には、たとえ本人と無縁の者であっても、少なか らぬ迷惑がかかるものなのだ。

 ただ、それが人間ということなのではないだろうか。人間の「人」はもちろ ん「ヒト」ということ、そして人間の「間」は「関係」を表している。この人間 という表記はまことに私達のあり方の本質を的確に言い表している。私達は「関係」なくして人間ではあり得ないのである。

 その関係は例えば夫婦、親子、友人・知人、という個々の関係もあるだろう が、もっと広く考えて言えば、私の生存は私一人では成り立たない、という関係 にまでたどり着く。私達ヒトは、赤ん坊という、ほとんど無防備な状態で生まれ る。そのこと自体が、単体での生存ではなく、他者による介護を前提としている ということではないか。 

 「人に迷惑をかけてはいけない」。もちろんそう心がけることは大切である 。社会的なマナーという範疇では妥当な物言いである。ただし、人に全く迷惑を 掛けずに生きていけるか、ということになれば話は別であろう。そんな人がいる はずがない。だから、人に迷惑をかけ、そして人の迷惑を受け入れ、というのが 人間のあるがままの姿ではないだろうか。

 話の場面は全然変わるが、現代というのはこの人間同士の関係のあり方が崩 壊しつつあるようだ。特に若者達の「キレる」という姿と「ケータイメール全盛 」にその思いを強くする。まことに簡単に人間関係を切ってしまう感情の爆発と 、離れた場所の相手への執拗な連絡の取り合い。まだ上手く整理がついていない のだが、高度情報化社会は人間本来の関係性を破壊する側面を持っているのでは ないだろうか。

 「人は野垂れ死にすらできない」という題を付けたけれど、言いたいことは 、いくら自分で切り捨てたつもりになっていても、人と人との関係というものは 身に従う影のように決して離れないということなのだ。だから、関係を切り捨て たいと思うようになってしまったときには、自分が人間として何か大切なことを 見失ってしまっているのだというふうに考えてはどうだろうか。

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