![]()
00/06/22 この国民ありて、この宰相あり
「軽率な発言」「総理としての資質に欠ける」「戦中、戦前の発想」等、様 々な批判を浴びた森喜朗首相の「神の国」発言。森代議士は釈明の中で「神とは 『いのちの尊厳の根拠』と考えて欲しい。そして今日の若者の暴走は、いのちの 大切さを教えられていないからだ」という意味の言葉を使っていた。それが「真 意」なら受け入れてもよいと思う。しかしその場合、全人類が神によって生み出 されているわけで、格別「日本は」などという必要もない。やはり発言撤回の上 、「世界の中の日本」という視野を持った教育論を展開していただきたかった。
だがしかし、である。あの発言の何が問題なのかがピンと来ない人が多いこ とも事実であろうし、表面的には批判している人の中にも、つきつめて考えれば 彼の発言と同じ心情を持つ人も多いことであろう。他でもない、私自身が、「カ ミ」の呪縛から解放されてはいないのだ。とある檀家さんから「私の占いに拠れ ばあなたは今年お金のトラブルに注意した方がいい」と言われ、すわ何ごとが起 こるやらと、かなりビビってしまったのである。こういった占いなどもその背後 には神代の時代からの「カミ」がいると考えられる。
普通は「神」と書く。しかしこの概念はまことに多岐にわたる。森羅万象に 宿る精霊ととらえるときもあれば、「天照大神」と具体的な名称で想定される人 格神もある。例えば神社に詣でて柏手を打つとき、私達は何を神として考えてい るだろうか。前者の意味の神であるなら「豊かな感性」と受け取ることもできる 。しかしだいたい私達が考えるのは「苦しいときの神頼み」であり、私達の命運 を司る力を持つ存在者を考えているだろう。それが「カミ」と言われてきたもの である。
蓮如上人は御文の中で「吉日良辰を選ばず」と教えられている。方向の良し 悪しや日の吉凶を気にする必要はない、という言葉である。このことはつまり、 カミを恐れる必要なし、ということである。昔の考え方では、私達が幸せに暮ら すためにはカミを味方にし、その庇護を受け、ご機嫌をとり続ける必要があった 。その作法の一つが「吉日良辰」である。ところが蓮如の教えを受けた門徒達は それまでの日本人的な吉日良辰に縛られた暮らしから飛び出し、「やりたい放題 」とも言える姿で生活していた。そのために「門徒もの知らず」と言われもした のである。
真宗門徒を名のりながら、神棚をしつらえ拝礼を欠かさない人はたくさんい る。結局このような人は真宗門徒とは言えないと思う。しかし、私の知る範囲に 限って言うが、ほとんどの家にはお内佛と神棚がある。カミと縁が切れないのだ 。佛の教えと神を祀る思想は相容れないものであるにも関わらず、自分の内で矛 盾しない。阿弥陀如来も多くのカミの一つに過ぎなくなってしまったのだろう。
加賀の国はかつて史書に「百姓の持ちたる国」と記された、真宗門徒の国で あった。近代においても「真宗王国」の名を自他共に許してきた土地である。し かし今日、その実体はまことに危ういものである。堂々とそびえているように見 える大木が実は、中味はほとんど朽ちてしまっているようなものである。
しかし、人のことを言っても仕方がない。私自身がカミにおびえている。そのことをまず、自分に問うて行かねばならない。カミとはまた、魔でもあり、魔 を生み出すのも私自身と教えられるからだ。
参照: 小松教区発行布教チラシ「不幸が気になる方へ」