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14/03/'00 オウム子女の就学受け入れ
栃木県大田原市の教育委員会がオウム真理教(現・アレフ)の教団幹部の子 弟、いわゆる「オウム子女」の就学を受け入れる旨を表明した。全国各地でオウ ム拒否運動が盛んに行われている中で、この判断は高く評価されるべきだ。
当該校に通う生徒の保護者の方々もいろいろな点について懸念をお持ちのこ とと思われる。しかし最終的に、「せざるを得ない」という形にせよ、容認の方 向を取っておられることについても、尊い判断だと思う。
実際には、「当初は混乱を避けるために別々の教室で」「様子を見ながら徐 々に同じ場所で」という段階的措置を取るようであるが、なるべく混乱を避けた い現場に十分配慮する形で、しかし「教育の機会均等」の原則は外さないように 行われることを私は願う。
いちばん大変なのは受け入れる学校の先生方だろう。今日の社会的状況の中 で、学校の先生にかかる負担というのは大変なものだ。時として自分とはずいぶ ん歳の離れた人間と同じ現場で取っ組み合わなければならないのだから。「受け 入れる」という基本方針の中で、現場の先生方ができるだけ動きやすい形が整え られるべきである。
取材なんぞで大騒ぎするなよ、マスコミ。
事はオウム子女に限ったことではない。また、学校現場に限ったことでもな い。およそ人間教育ということが行われる場所で「○○な者は出て行け」という 手段は、核兵器と同じく、使った者が敗者なのだ。
大原則は「すべての者を受け入れる」「いかなる者も排除しない」である。 現実問題として、あらゆる現場でこの原則を貫き通すことは不可能かもしれない 。しかし最も大切な理念として掲げ、そのためにいろいろな方策をぎりぎりまで 考えるところから、人間の連帯ということが生まれるのだろう。
念仏の救いとは、第十八願の「乃至十念、若不生者、不取正覚」の精神に触 れることから生まれる。この言葉は、「ただ一度でも念佛した者は決して見捨て ない。もし見捨ててしまうようなことがあれば、私は佛にはならない」という阿 弥陀如来の誓いの言葉である。その眼は間違いなく自分にも向けられていること を知り、「そうか、そうだったのか」、「よっしゃ、頑張ろう」と立ち上がって いける救いである。
このことを平野修先生は宗祖の「願楽覚知(がんぎょうかくち)、成作為興 (じょうさいこう)」という言葉にあてはめておられる。「そうか、そうだった のか」が願楽覚知、「よっしゃ、頑張ろう」が成作為興にあたる。この、「よっ しゃ、頑張ろう」は、「自分も本願の精神に生きる者になろう」とする意欲、つ まり「誰も見捨てない者になりたい」ということである。
そのことを貫き通せるかどうかは分からない。しかし最初っから「出て行け 」とシュプレヒコールを上げる集団には加わりたくないものだ。