〜赤本(聖典)と白本(新聞)の間で〜




00/01/31 「自律の根拠」

 昨年は吉村作治早大教授が怒りの途中降壇、今年は爆竹騒ぎと、昨今の成人 式を巡る話題は新成人の「お行儀」が中心になってきた。都会の話かとばかり思 っていたら、私が住む地域周辺でも状況は同じらしい。仲間との大声でのやりと り、携帯の呼び出し音で騒然とする中、挨拶に立った首長が憮然として形ばかり の祝辞を読んで終わったとかいう話は最早珍しくもないことらしい。

 今や成人式はかつての「人生における大切な節目のセレモニー」なんぞでは なく、「市町村が主催してくれる大規模な同窓会」と化している。お祭りなんだ から盛り上げなくちゃ、という気分なら、一升瓶の回し飲みや爆竹も当然か。そ んな状況ならやめてしまえ、と思うのだが、着物や綺麗なお洋服が売れなくなる ということで呉服や繊維業界から「廃止反対」の声が上がっている。ガキ共にな められるのも仕方ないか。

 キャリア十年にも満たない、しかもはしくれとしての高校教員の経験からし か言えないのだが、外部からの強制力で人(生徒)をコントロールできる範囲は まことに狭い。それに、その強制力に対して人は鈍化しやすいから、徐々にコン トロールできなくなるか、より強いパワーをかけなければならなくなる。そして 強いパワーによる強制には、それに応じた反発に手を焼かなければならなくもな る。

 かつては学校の先生やお巡りさんにずいぶんと権威があった。あるいは「天 皇陛下」、さらにその背後には「神様、仏様」があった。そのような「権威」が 機能して人間はコントロールされていた。単純に先生の「コラ!」の一言でビビ っていたし、「悪いことしたら罰が当たるぞ」、とか「地獄に堕ちるぞ」も小さ い頃は本気で怖かったし、その昔は「天皇陛下のために!」で1億国民が動いた 。「人様が見たらどう思うか」という言葉も結構自分達の生活をコントロールし ていただろう。

 念のために言うが、ここで言っている「コントロール」は、決して「だから みんなお行儀がよくて良かったね」というような思いで使っているのではない。 ある意味で人間が束縛されていたにすぎないのである。修身教育を復活させるこ とには反対である。

 今日、あらゆる権威はほとんどが幻想として捨て去られている。天皇につい てもまず無関心であるし、学校の先生やお巡りさんの不祥事が連日報道されてい るし、神サマ佛サマなんてファッションで初詣に行ったり腕輪数珠するくらいの もので、一切の権威は「地に墜ちた」も同然である。

 まあそれはそれで、健全と言えるだろう。人間をコントロールする外部の権 威などない方がいいのだ。そして若者はそのテのものに反抗する権利を有する。

 だがしかし、どこかに自分をコントロールする原理・原則を持っていなけれ ばならないだろう。「○○に照らして考えるなら、自分は今このことをしなけれ ばならない」、あるいは同じく「このことを為すべきではない」という原理。

 かつてはそれが否応なく外から与えられたが、今日は誰も自信を持ってそれ を言えない。たまに自信たっぷりにそんな原理を与える奴が出てくるが、結局は 怪しげな教祖だったりする。

 自分が従うべき原理・原則は、自分で見つけださなければならない。見つけ だせないままに、あるいは見つけだそうなどとは考えずに根無し草のようになっ ている典型的姿が、昨今の「問題児的」新成人なのだろう。あるいは彼らは既に 、「自分さえよければいい」という原則を生きているのかも知れない。

 自律には根拠が必要だ。いかなる原理原則もなしに自律ということはあり得 ない。本当に自分を解放させ、自律させる根拠、それを私達の先達は「真宗の本 尊」と呼んできたのだ。

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